2021年度ボカロ考察
この記事は、UEC 2 Advent Calendar 2023 - Adventar 9日目の記事です。
こう(昼飯)です。21年度生B3のⅢ類光工学科です。3年実験分からん分からん分からん分からん。
はじめに
溜まっている激重感情を吐き出します。
前日の記事はらぼねこさんの記事です。まだですね!僕もよくあります!待ってます!
2021年度のボカロ曲
さて、皆さんボカロ曲はお好きでしょうか。今回2021年のボカロ曲を考察したいのですが、2021年のドベカレでやれ 2021年のボカロ曲にどんな曲があったか覚えていらっしゃいますでしょうか。
2021年といえば、前年度の柊キライさんやkanariaさん等の活躍に引き続いて、プロセカや2020年冬から始まったボカコレ、後ぶっちゃけコロナ禍の影響でボカロ界隈が大いに盛り上がった年でした。また、7月に音楽的同位体シリーズの第一弾、「可不」がリリースされボカロ曲の幅が大きく広がった年でした。
musical-isotope.kamitsubaki.jp
考察する2021年度のボカロ曲の候補を得るにあたって(ほぼほぼやりたいものは決まっていましたが)、2021年1月1日から2021年12月31日の間にニコニコ動画に投稿された音楽・サウンドのランキングを参考にしました。
2021年ボカロ曲再生数ランキングTop10
1.フォニイ - kafu [オリジナル] - ニコニコ動画
3.きゅうくらりん / いよわ feat.可不 - ニコニコ動画
5.DECO*27 - ヴァンパイア feat. 初音ミク - ニコニコ動画
6.マーシャル・マキシマイザー / 柊マグネタイト feat.可不 - ニコニコ動画
7.【GUMI】エンヴィーベイビー【Kanaria】 - ニコニコ動画
8.【可不】キュートなカノジョ【syudou】 - ニコニコ動画
9.エゴロック(long ver.) / すりぃ feat.鏡音レン - ニコニコ動画
10.『トンデモワンダーズ』feat.初音ミク(+KAITO) / sasakure.UK - ニコニコ動画
その中で僕が考察するのは、「神っぽいな」と「マーシャル・マキシマイザー」と「フォニイ」です。本当はあと「ロウワー」と「エゴロック」も考察したかったのですが、無理そうなのでtwitterでアンケートを募って3曲に絞りました。
ドベカレで考察する3曲の2021年のボカロ曲の3曲目を募集したいです。神っぽいなとマーシャル・マキシマイザーは確定でやろうと思っています。(5曲は無理そう)
— こう (@hirumeshikuuya) 2023年12月1日
また、2021年公開の超ヒット曲、「きゅうくらりん」の考察は去年のドベカレで軽く触れてますので、この記事を読み終わって余力があった場合のみご覧ください。
あと、出来上がった考察が結構猟奇的だったので、もし途中で気分が悪くなった方がいらっしゃいましたら、すぎに読むのをやめて休んでください。
神っぽいな/ピノキオピー
「無為に生き延びるのは難しい」
この曲の登場人物は、神、神っぽいな(ピノキオピーさん)、神っぽいなの信者の3者である。神っぽいなの考察というと、「創作物をなんとなくの雰囲気だけで享受して消費している現代人への皮肉」とするのが巷で言われている定説であるが、もちろんその面も確実にあるが、僕の考えは実を言うとそうではない。
この曲は「他作品のコピーやなんとなく良いとされている創作上での妥当なメゾットを多分に取り入れるしかなくて、自分が本当にやりたいやり方で創作を行えないという、創作者の苦悩」について歌った曲である。
この主張はある程度ぶっ飛んでいるが、この考えはことごとく歌詞に符合する。
楽曲中の歌詞のどの部分に楽曲のテーマが色濃く表れるかという問題については、もちろん楽曲が進んでいく順番通りな訳がないので、説明がしやすい順に説明していく。
Bメロの考察
まず、Bメロの考察に入っていく。まず、「メタ思考」する本質は勿論悪意ではない。では何なのかというと、ニヒリズムである。ニーチェだし。それより、メタ思考の部分が大事だと思っていて、つまりピノキオピーさんがメタ思考をしているのであり、自分が当事者となっているものに対して、一つ上の目線から何かを語っていると自己開示しているのである。実感としてとらえられない外部の何かに対して外から分析するのは、メタ思考ではなくただの分析である(外部なので絶対的にメタなのでわざわざメタ思考だとは言わない)。
「人を小馬鹿にしたような作為」についても、勿論馬鹿にしている訳ではなく、メタ思考して本来は考えないことや、考えたくなくて押さえつけているものをあえて指摘するというのは、人を小馬鹿にしているように見えてしまう面もあるというだけである。
さて、この曲が「他作品のコピーやなんとなく良いとされている創作上での妥当なメゾットを多分に取り入れるしかなくて、自分が本当にやりたいやり方で創作を行えないという、創作者の苦悩」だとする最大の根拠が次の歌詞である。つまり、自分のやりたいように創作をしていてはいずれうまく行かなくなるので、他者の優れている点や、既にある程度のクオリティを保てる物として妥当とされているメゾッド、今流行の傾向でやれば確実に一定数の支持を得られるであろう工夫等を取り入れてなんとか生き延びようとしているのである。これは作品を受け取る側の解像感を皮肉る解釈では、うまく意味が取れない歌詞であり、同時に創作者というもの(ピノキオピーさんと言っていいかもしれない)の苦悩と試行錯誤感を感じ取れる一節である。
次の一節の「権力」とはつまり『Fly with me/millennium parade』の「Goddamn you monopoly」である。 つまり、自分だけの考えやこだわりで一定のクオリティを担保するのは非常に難しく、視聴者のマジョリティ層に受ける作品を作る方が勝ち残りやすく、その強大な逆らい難い流れがここで歌われている界隈で支配的になっているのである(多分どこもだいたいそう)。そしてそれによって、自分のやりたいようにやって大多数に受けいれられるというある種の理想が揺らいでいるのである。
ここがうまく意味がとらえきれてなくて、つまり神っぽいなは神を真似している訳であり、寧ろ肯定しているはずである。今のところは、前述の通り神のスタンス(自身の能力だけで創作を行う)のではなく、神っぽいなのスタンス(作品のわりと根幹まで他人の作品を取り入れたり世の中の流れに作風を傾ける)で神の作品を超えようとしているのであり、その点が「神を否定している」という部分にかかってくるのだと考えている。
そのスタンスでクリエイター達が創作活動を行うと、その中で成功する者が何人も現れていくが、彼らはある意味他人の持ち物で成功したのであり、その結果をあまりに自分のおかげだと思いすぎると自惚れている小物のようになってしまう恐れがあると言っているのである。
この曲が若干棘が鋭いのは、ある種ピノキオピーさん自身がこのテーマから無関係でいられない存在であり(といより、この曲におけるピノキオピーさんの関心はピノキオピーさん自身にしかないようにも思える)、だからこそ多少棘のある表現でも自身に刺さるので鋭すぎても多少は問題がない。つまり、この曲は視聴者や創作者を批判しているというよりはあくまでも「自戒」なのであり、その事をあなたは知っていますか?理解していますか?と問いかけているのである。
それに対しての信者の返答が面白いのだが、神っぽいなの主張を否定するのではなく、「眠ってしまう」というである。信者はなんとなく良い作品を受け取りたいだけであり、その欲求から外れてしまうと興味が無くなってしまうのである。つまり、「創作物をなんとなくの雰囲気だけで享受して消費している現代人への皮肉」という面もこの曲にしっかり含まれているのである。ところで、この歌詞部分に入ると急にBPMが変わるが、これは曲を聴いている視聴者を飽きさせないための工夫ではないかと考えている。
2021年頃はネット上に創作物や情報があふれ、僕たちのような情報や作品を受け取る側が、1作品あたりに割く時間が少なくなり飽きっぽくなってきていると言われていた時期である。例えば、イントロを流す時間を省略し、最初から歌詞部分を流すというトレンドが、そのことをの現れである。
その事を踏まえ、前後の展開とともに考えると、「踊れるやつ頂戴頂戴ビーム」とは、「BPMが一定だと曲中で飽きてしまうので、曲中でBPMを変えて、僕たちを飽きさせない曲を作って欲しいという視聴者からの要望」であると考えられる。
その後の歌詞は、創作者の苦悩を分からない視聴者の姿を描写していると考えている(勿論それを悪いと言っているのではなく、ピノキオピーさん自身もそれを批判している訳では絶対無い)。
Aメロの考察
Aメロを考察する。「もういいぜ」から「興奮してきたなぁ」の部分は、パターン化されて似たり寄ったりになっている作品を連続して享受することによって、それらに飽きるのではなく寧ろ慣れ親しんで作品を楽しんでいる視聴者の様子を表している。「創作物をなんとなくで享受している」のであれば、例えば「かっけえぜかっけえぜそれかっけえぜかっけえぜ創作物なんとなくで享受するぽややーん」等でいいのである(よくない)。そうではなく、「もういいぜ」と、歌詞の比較的最初の方から具体的で踏み込んだないようになっているのは、明らかに異常である。
神っぽいな(ここではピノキオピーさんのことであるとしたが、任意の創作者全般だと考えても勿論かまわないし、そう考えた方がいい部分もある)の夢が「おっきい」というのは、後の歌詞で散々言及されるが、端的にいうと神っぽいなが神を超えようとしているのが最終的な理想であるがためである。ここでいう神というのは、神っぽいなが作品を作る上で参考にしている創作者もしくは何も参考しないで完全に1から創作物を作り上げている創作者である(本当にそんな人がいるかどうかはわからないが)。Aメロが終わって「Gottisttot(有名なニーチェの発言であり、神はタヒんだの意)」と流れるのは、そういうことである。
神っぽいなは本人の身の丈に合わない非常に大それたことを言っており(相手が神なので)、景気だけよくて品性が終わってしまっているという歌詞も納得頂けるだろう。
以上がAメロとBメロの考察である。間奏部の考察もすると、「とぅとぅるとぅとぅとぅる"風"ぽいじゃんぽいじゃん」というのは、それっぽさだけで作品を鑑賞している視聴者と他人の作品を横流しにして「ぽい」作品を作っている作者の両方を描写している(何度も言うが、批判している訳ではない)。以上の通り、一応メインのテーマは創作者側の描写側なのだが、創作者と視聴者の両方をテーマにしているのである。
サビの考察
この曲にはサビが2つあるが(1番と2番)、同時に考察していく。ピノキオピーさんは神っぽいなの創作スタンスを卑怯だと思っているようである(本当に何度も言うが、ピノキオピーさんは批判している訳ではない。それこそ自戒やあるいは自虐か、基本はニヒリズムである)。サビまわりは曲のムードを作らために言葉を重ねている部分もあるので一気に行くが、畢竟、害虫はピノキオピーさん自身だと言っているようである。つまり、作品を作者の思った通りに受け取ってくれない視聴者や自分以外の神っぽいなではなく、わざわざこんなことを取りざたしている自分が害虫だと言っているのである。
2番のサビに飛ぶが、「健康だと言っているのにくたばっていく」というのは、神っぽいなを批判しているのなら自身は健全なのかといわれるとそうではく、逆に自分こそ不健全(神っぽいな)であるという事を表している。また、エピゴーネンとあるが、エピゴーネンとはWikipediaによると、「文学や芸術の分野などで、優れているとされる先人のスタイル等をそのまま流用・模倣して、オリジナル性に欠けた作品を制作する者」であるという(!)。
1番と2番のサビの後半部分では、創作物や表現の形式や媒体を列挙して「アレっぽいな」とまとめている。これは創作者を妄信してなんとなくで創作物を消費して作品について何にも理解していない受け取りてについて描写しているというよりは、「神っぽいな」の「タイトル」・「絵」・「ストーリー」・「音楽」・「歌」・「メロディー」・「名言」・「意見」・「批評」・「カリスマ」・「ギャグ」・「センス」が「アレ(神。つまり、絵やストーリや音楽等がなんとなく似ているものが思い当たるという事)」っぽいなと、「比況」しているのである。
「あこがれちゃうわ」とあるが、神っぽいなは神に憧れて創作しているのであり、結局(畢竟)、神っぽいなが神の一番の信者であったというオチである。
以上が、サビの考察である。サビが終わった後、冒頭と同様に、「愛のネタバレ~タヒぬっぽいな」と流れるが、この部分の考察は最後に回す。「すべて」というのは今まで見てきたような創作者が抱えるジレンマのことであり、何に患ったのかというと、多少不満があっても、それで生き残れるならと、神っぽいなのスタンスで創作してしまっているのである。そして、優れている創作者の作品を真似したり今の流行りに作風を寄せたりした方が作品が評価されるなどという事をまったく理解することなく自分の好きなように創作活動をしていきたかったとして、この作品を締めるのである。
「愛のネタバレ『別れ』っぽいな 人生のネタバレ『タヒぬ』っぽいな」の部分の考察
この曲でおそらく最も印象に残りやすい一節について考察する。個人的には、この部分は作品のテーマに全く関係無い。これは、言ってしまえば、天才の嫌味である。これまでの考察の通りに行くと、ピノキオピーさんの作品作りにおいて、他人の作品の優れている点やマジョリティにウけやすい要素を拾って創作を行うというスタンスを意識していると予想できる。それをこの『神っぽいな』という曲において体現しているとすると、この一節もなんとなく世の中受けしやすいような結果になるように作っているように考えられる。それが、「それっぽい単語集で踊っている」という部分なのだが、つまり、「僕はなんとなく流行りの要素を要れたり他人の作品の一部分をパクったりしたりして、ここまでかっこよくてキャッチーなフレーズを作れるよ!それって本当はとても難しいことなんだけどねwwwてへぺろ」と言っているのである。だから「失敬」と付け加えている。この曲ではこの一節以外はすべて曲の主張したいテーマの説明であり、この一節は謂わばテーマの実践である。この一節の内容そのものに関しては、おそらくどうでもいい(というかなんでもいい)。
強いていうなら、「生き延びるのが難し」く、「無邪気に踊っていたかった」「人生のネタバレ」が「『タヒぬ』っぽい」のなら、色々と策を弄してもいずれは埋もれていってしまうという事を表している等と考察もできるが、正直ここまで来るとただのパズルになってしまいピノキオピーさんの考えに近づけている気がしないので、そうとってもとらなくてもどちらでもよいのである。
この曲のテーマについて
この曲はアルバム『META』に収録しており、あくまでもメタ思考というコンセプトのもとできた曲であり、何かを批判するために書いた曲では絶対無い。他の曲を聞いても分かるように、ピノキオピーさんは皮肉やニヒリズムを描写して、あえてその中にとどまろうとするような方である(例:ピノキオピー - 匿名M feat. 初音ミク・ARuFa / Anonymous M - YouTube 初音ミクをそれだけでは意味をなさない者だとして、その上でそのことについて良い悪いを特に言及しない)。この曲も結果多数の皮肉に巻かれ、特に、この曲がyoutubeでは6000万回再生されニコニコ動画では年内に100万回再生を達成し2021年を代表する曲となり、ある種ピノキオピーさんの正しさが証明されてしまったのは、どうしようもないくらい皮肉である。
この曲のテーマは非常にセンシティブであり正直古参ボカロpで今も一線で活躍なさっている化け物のピノキオピーさんがこんな内容の曲を書いているのは色々と察して余りある部分が多々あるが、歌詞の意味としては概ね、以上に書いた通りで大体趣旨はあっていると思う。
マーシャル・マキシマイザー
考察というよりクソでか感情の掃き溜めになる予定である。
この曲はデーモンコアの臨界実験及び、マキシマイザーというDTMのエフェクトについての曲である。実はこのアイディアは既に出ていて、デーモンコアに関してはyoutubeのコメント欄で散々言及されているし、DTMのマキシマイザーに関しては、こんな記事がある。
ただ、書きたい事が沢山あるので、書く。改めて、この曲は「自身のアイデンティティを模索するためにわざわざタヒと隣り合わせの環境でデーモン・コアの臨界実験をする研究者と99人の被験者」及び、「作曲におけるマキシマイザーの使用とそれを含む柊マグネタイトさん自身の作曲体験」についての曲である。前者から行く。
デーモン・コアの臨界実験
デーモン・コアに関しては、ミーム化すらされていて、様々なネット上の記事で解説されているので、それを見ても構わない。これはデーモン・コア君のラインスタンプ。可愛い。
概要としては、広島・長崎に続いて日本に落とされるはずだった核爆弾を、実験用に転用して、その上で危険な実験が何度も行われ、人が何人もタヒんでしまった実在したプルトニウムの未臨界塊である。
大事なキーワードとしては以下のとおりである。
・臨界実験
デーモンコアが臨界点(核反応を起こす点)に達するか達しないかを調べる実験。
・チャレコフキ光
デーモン・コアが臨界点に達すると放つ青色の光。水晶体に直接影響して青く見えるらしいのだが、放射線なので見たらというより浴びたらタヒぬ。
『マーシャル・マキシマイザー』における「デーモン・コア」
この楽曲には、実験及びデーモン・コアについての多様な描写がされているので、紹介していく。
・「臨界実験に付き合う朝」
実験に"付き合う"と言っているが、"参加する"でも"協力する"でもないのは、まとまった日数を取って、住み込みで実験に参加しているからである。"付き合う"と言われると、自分のスケジュールを削って逐一自分の予定と照らし合わせて、できるだけ時間が空いたらその空いた時間をそっくりそのまま実験に使っている感じがする。朝と言っている点からも、被験者と研究者が時間を共有している点が強調されているのが分かる。長期間通して、住み込みで実験しているのである。危なそう。
・「14听」
デーモンコアは重さ6.2kgの球体であり、ポンド単位に直すと、凡そ14ポンドである。
・「蔑奴」
造語であるが、罵倒している言葉である。研究者は自分の命を野ざらしに晒すような危険な状況で研究をしているのであり、それが思慮が足りない侮蔑に値する奴だと言われてしまっているのである。
・「気が狂うふりをしている」
研究者は自身のアイデンティティというか、存在に関する答えを得たくてわざわざ危険な実験をしているのであり、つまり自身の存在を危険にさらすことによって自分とは何かというものについての答えを得ようとしているのであって、その点が「気が狂う『ふりをしている』」と言われる所以である。
・「面倒だったから切り捨てた」
99人の被験者の話になるが、MVの間奏やアウトロで最初99あったカウントがだんだん減っていっている描写がある。これを僕は99人の被験者が実験の失敗によってだんだんタヒんでいっているのだと考察していて(というより巷で考察されていて)、間奏中の会話でも被験者らしき人が人間ではないというような事が言及されているので、恐らくクローンかアンドロイドかの被験者がタヒんでいっているのだろう。
・「目に焼き付いた青の感光」
先ほど述べた、チャレコフキ光である。
・「モラトリアム的人生」
モラトリアムとは人生で自分が何を行うかを模索する時期であり、「モラトリアム的人生」となると、人生通してずっとモラトリアム期であると言っているようなものであり、これはこの研究者の実験の目的と生き方を表しているだろう。
・「失敗!」
実験は失敗。おそらく人がタヒぬのであろう。最後は研究者もタヒぬはずである。
・「なんてことだ!タヒんでしまう!」
前述の通り、タヒんしまうのである。
・「だがツマミは回る雁字搦 mate!」
面白いのが、ツマミを回しているのである。「メーターは回る」であったら、一度始めた実験を途中で止めることもできず、人がタヒんでもメーターが回るのは分かる。しかし、ここではツマミを回しているのであり、人がタヒんでいるのに実験を強行しているのは変である。そこが、「気が狂うふりをしている」と言われる所以であり、使命感に駆られて(言ってみれば神経症的に)実験にとらわれて、被験者と渾然一体となって雁字搦めになっているのである。
・「同位体」
放射性同位体である。デーモン・コアで一体どんな同位体の実験を行えるのかはわからないが、核にかかわる用語を散らばせて曲に奥行きを持たせているのである。
・「生還 実験に繰り出すアラーム」
ギリギリのところで生き残ったようである。アラームは実験開始の合図や、危険を知らせる警告音であろう。
・「旧四」
「旧」ソ連チェルノブイリ原子力発電所事故の、事故が起こった原子炉が4番炉である。
・「ロンド」
分からん
・「解は求まんないよ」
臨界実験の結果が出ないというより、人生についての答えが出てないようである。間奏中の会話を見ていても色々思い悩んでいるようだし、確かに「会話も止まんないよ」。
・「最小公倍数的断頭台」
断頭台とはタヒ刑を行う場所、つまり次々に人がタヒんでいくこの実験をタヒ刑に例えているのである。最小公倍数とは、同じ条件下にある複数のものから、最小のものを選ぶ事を指す。つまり、被験者の犠牲を最小にしようとしているのであり、色々と頑張っているようである。
「なんてことだ!生きてしまう!だが恨み逆巻く惨事またGATE!」
以上述べた通り、この研究者はタヒに近づくことによって、自身のアイデンティティや存在についての答えを得ようとしているのだが、実験が危険にならなくて生きてしまうとせっかくの実験から答えが得られず無駄になってしまう。だから、研究者になって「生きてしまう」事は芳しくないのだが、いざ惨事が起こってタヒんでしまうとなると、タヒが怖くなって生きたくなってしまい、恐らくタヒに臨んでも人生の答えは得られず、僕の命は何だったのかと、不特定の誰かを恨んでいるのである(僕たちはモラトリアム期では、主張は強い割に他責的である)。
この、「タヒを軽視して生きてしまうのを恐れている」状態から「いざタヒに瀕していままでさんざんタヒにたがっていたのにタヒを恐れている」状態になる振れ幅が大きすぎて大変好きなのだ。
以上がこの曲の「自身のアイデンティティを模索するためにわざわざタヒと隣り合わせの環境でデーモン・コアの臨界実験をする研究者と99人の被験者」の部分についての考察である。正直99人の被験者についてあまり触れられなかったが、99人の被験者は可不であり、後に述べる。
DAWのプラグイン「マキシマイザー」について
次に、この曲のもう一つの部分、「作曲におけるマキシマイザーの使用とそれを含む柊マグネタイトさん自身の作曲体験」について述べる。まず、この曲で主題になっているマキシマイザーについてであるが、その前に「リミッター」について述べる。「リミッター」とは、DAWでのDTMの作曲において、音割れしないように音量の最大値を決めてそれ以上に音がいかないようにするプラグインである。
それに対して、マキシマイザーとはリミッターの性質、つまり音量をある値以下にする機能を持ちつつ、その中で音量を最大限にあげるものである。このマキシマイザーを使うと、音圧を安心して上げれるらしい。このDAWのプラグインの一つである、マキシマイザーが、この曲のテーマの一つになっている。
柊マグネタイトさんの楽曲制作
柊マグネタイトさんが『マーシャル・マキシマイザー』を作る時、あるいは楽曲制作をする時は、起きてから寝るまでずっと楽曲制作に臨んでいるようである。この曲には時間に関する単語が数多く登場する。例えば、「朝」・「夜」・「丑」・「惨事」等がある。その上で、「夜更かし」して、食事と睡眠以外は楽曲制作に打ち込んでいるのである。
柊マグネタイトさんが「人でなし」なのかというともちろんそうではなく、「ベッド」から「起きて」から「また寝て」まで何もしていないのでは無く、ずっと楽曲制作を行っているのであり、むしろ「人でなし」の真逆である。ただ、本来は別のやるべき事をやるべきなのに「モラトリアム的」に好きな事をやっているいう文脈で、柊マグネタイトさんが「人でなし」と言っている可能性もある。
「最大公約数的緩衝材」とは、マキシマイザーの事である。最大公約数とはある型のデータ群を基にしたある条件の計算結果の中で最大のものを選んだものである。マキシマイザーとはすべてのトラックをある音量を超えないように音圧を最大にする緩衝材である。「緩衝材」というからには、どちらかって言うとリミッターとしての要素が拾われている。
「ロンド」とは、主題部分が挿入部分をはさんで繰り返し出現する形式であるという。もしかしたら有識者が聞いたらこの楽曲もロンド形式なのかもしれないが、僕は詳しくなさ過ぎるのでわからない。とにかく、このように音楽に関するワードが楽曲中に出ているのであり、この音楽が楽曲制作に関する楽曲であることの要素の一つとなる。
「ラック」も音楽用語で、音楽機材をしまう棚のようなものがラックであるが、ラックの大きさの単位は「U」である。柊マグネタイトさんの使っているラックは4Uサイズなのだろうか。
「既に会う音に不意に解は求まんない」というのは、まさしく音について歌っている。よくボカロではレトリックや、あるいはただ単に音楽だからと言って音に関するフレーズを歌詞に差し込むことがあるが、この場合に限っては音について歌っている。つまりマキシマイザーである程度自動的にマスタリングされた結果だけでは満足できず、柊マグネタイトさんが自分の作品の出来栄えに満足できるようにあれこれ手を加えているのであろう。
サビについて
『マーシャル・マキシマイザー』のサビは、柊マグネタイトさんがマキシマイザーを
使っている様子を描写している。
つまり、音が壊れてもマキシマイザーの使用を強行し、音がタヒんでしまうが、そのまま楽曲の可能性を知りたくてオーディオインターフェイスのツマミを回し続けてしまい、今まで制作につぎ込んできた時間がもったいなくなるサンクコスト効果によってマキシマイザーの使用を続け、音楽的同位体である可不の音を最終的には取り戻したくて、次々に気になる部分や改善のたびに改悪される部分が出てきて無限に制作に打ち込んで、その結果ある音は良くても別の音は悪くなっていて乖離してしまっている?
こんなの夜な夜なマキシマイザーを使用して悪戦苦闘しているDTMerの姿しか浮かばないじゃないですか!(上の考察に書いてあるけど)
以上が、この楽曲のもう一つの側面である「作曲におけるマキシマイザーの使用とそれを含む柊マグネタイトさん自身の作曲体験」についての考察である。勿論この側面と臨界実験を行う研究者は、イメージのレベルで混ざり合っており、率直に受け取ると柊マグネタイトさんは自身の楽曲制作について、モラトリアム的な罪悪感を、全く深刻でない意味で持っているようである。
サムネについて
サムネの女の子はオリキャラであるが、この女の子はヘッドフォンを付けて、白衣を着ている。このことは、まさに『マーシャル・マキシマイザー』が音楽と実験について歌っていることの証左である。
この楽曲の最初の「ポロロローン」は、『炉心融解』のそれのオマージュである。テーマからして『炉心融解』は『マーシャル・マキシマイザー』と似通っている(核、チャレコフキ光)。ところで、「ポロロローン」の後カラーコードが映るが、カラーコードは今までの放送を終えて新しく放送を始めるために深夜に映るものであるので、ここでの意味は、「先輩の楽曲に『炉心融解』という曲がありましたが、それを踏まえて僕はこのような楽曲を作ります」という宣言であると考えられる。また、カラーコードは深夜の2時から3時に流れることが多いが、これは丑になって三時股げ!という事である。
タイトルについてであるが、マキシマイザーは前述の通り、DTMのマキシマイザーであり、加えて研究者という意味のマキシマイザーである。マーシャルに関しては、恐らくマーシャル諸島の水爆実験からとっていて、核に関するイメージを多重に含ませている。音楽についての意味もしかしたらあるかもしれないので、僕は分からなかった。何か知っている人がいたら教えて欲しい。
姉妹曲の、『カノン』について
この曲は、2022年2月19日に投稿された、『マーシャル・マキシマイザー』の姉妹曲と呼べる曲である。サムネを見て分かる通り『マーシャル・マキシマイザー』の対になる曲である。混沌とした歌詞の中で、急に「『誰も犠牲になんかならない』そんな理想に縋ってしまった』と意味が分かる歌詞が飛び込んでくる気持ちよさと、最後のアウトロを聞くためだけにこの曲を聞いているかのような贅沢感が好きである。
さて、考察に入るが、カ(可)ノン(否定の意)より、カノンとは、可不である(サムネが可不だし)。また、カノンとはカノン進行の事である。ただ、この曲『カノン』のコード進行は、友達によるとカノン進行ではないらしく(😭😭😭)、しかし、間違いなくコード進行について歌ってはいる(歌ってはいるんだよ?!?!?!歌っては!!!)。『痕2回隔った十三度』というのは、カノン進行のコードの一部をずらして、新しいコード進行を作ろうとしている様子である。恐らく、十一度隔った時点ではしっくり来なくて、後もう2回隔たせたのだろう。『壊れたバランスの三角形』とは、カノン進行のコードを、だんだん崩していっている様子を表している(カノン進行のコードは、3音からなる)。最後のアウトロの部分は、カノン進行を壊して新しく作ったコード進行の披露であると考えている(さんざん試行錯誤して「また繰り返して」出来たものであるから「もういいよ」なのである。)。
つまり、この楽曲に関しても、柊マグネタイトさん自身の楽曲制作について書いており、『マーシャル・マキシマイザー』ではマスタリング時のマキシマイザーの使用について歌っているのに対して、『カノン』では打ち込みについて歌っているのである。
また、音楽用語としては、カノンは前述の「ロンド」と同様に、楽曲形式に関する単語であり、ここらへんも何か楽曲にかかわってくるかもしれない。音楽よわよわなので分からない。
また、『マーシャル・マキシマイザー』を含め、柊マグネタイトさんの楽曲は1曲目の『或世界消滅』で予告されているという考察がある。確かに、「トカマク型に取り自己複製を繰り返せと」等という歌詞があるように(核実験、99人の恐らくクローンである被験者)、『マーシャル・マキシマイザー』とのリンクが見られるが、あくまでも『マーシャル・マキシマイザー』単体で考えると、以上の通りである。
フォニイ
この曲は、エレクトラの勝者についての曲である。
「誰しもが嘘に絡まっている。」
この曲は「造花」・「フォニイ」・「そら」・「虚像」等、嘘に関するワードが多いが(勿論「嘘」も )、男女のどちらとも嘘をついているというのが面白い。この曲は男女関係に関する歌であるが、「嘘」だからといって浮気に関する歌などとしてはいけない。間奏部のMVを見て欲しいのだが、木製人形の男性に向かって主人公の女性が狐のお面をかぶって(猫のお面だという意見もあるが、猫をかぶっているので意味は同じである)媚を売っているのである。
では、なんの嘘をついているのかというと、そこがエレクトラの勝者にかかわってくる。
謎
曲中には「謎々」や「何故何故」というワードや、「私ってなんだっけ」というフレーズを見て分かるように「嘘」だけでなく「謎」もこの曲の重要なテーマの一つであるが、その中で最も主人公が切迫して知りたい疑問は、「如何して愛なんてものに群がりそれを欲して生きるの」かであろう。その答えは母親の存在にある。
エレクトラの勝者とは、ユングのエレクトラ・コンプレックスにかかわる、つまり父母娘の三角形(これはエディプス葛藤的、勿論母父息子の場合はエディプス・コンプレックス)においての勝者である。これは、勿論女性のエディプス・コンプレックスとしてとらえてもいいが(つまり男女の区別をつける必要はさらさらなく、だが寧ろエディプス・コンプレックスが男性的であるという問題もある)、女性に限定されているこの用語が便利すぎるので、ここではこのまま使っていく。
エレクトラの勝者の一般的な力動論としては、まず前提として幼少期に男女ともに異性の親に恋愛感情を抱くというものがある。ここで考えてみたいものは、思春期的ではないのである。恋愛的欲求ではなくリビドーであり、その上で恋愛的であるが、文字通りエディプス期である。一般的にはリビドーは原始的であるが、つまり、なにかに惹かれることの全般なのだが(精神分析的、いや力動論やんけ)、何が言いたいかといえば、そのさらに奥に生存欲求があるのである。
エレクトラの勝者の場合は、つまり母に勝つのだが、その時起こるのは、母に自分が攻撃されるのではないかという、強烈な恐怖である。もっと言うと、小さいころや幼少期は生存にかかわるものつまり、寝食にかかわるものは母親がその管轄であることが多い。少なくとも授乳は母親が行うしかなく、その延長であると考えてもらって構わない(父親も哺乳瓶とかあげられるじゃん!とかそういうことは聞いていない)。
そこで、何がおこるのかというと、エレクトラの勝者の欲求は満たされない。色々切り捨てていうと、人間が幼少期に本当に欲しがるのは、母親の母親的供給である。そこの基底がなくなると、所謂ヒステリータイプの力動論的なものに陥る。
フォニイで何が起こるのかというと、父親の愛を求め男性に愛を求めるのだが、実は本当に欲しいのは、母の愛なのである。すべての男性は父親の代わりだが、父親すら母親の代わりでしかない。だから「すべてが嘘で出来ている」。エレクトラの勝者は、自分は男性に愛されるという基本的感覚があるのだが、そこで、自分も母の愛を求め、男性に嘘をつく。勿論これらはすべて無意識域に抑えられるが(だから「謎」なのでる。とらえられない。)、深層心理として、強烈に存在しているのである。
フォニイのMVを見ている時、お面をはずしたのが大変驚いたのだが(作画コスト高いし)、その顔を見ていると、長いスパンでの欲求不満と虚脱感を見て取れる。ようするに永遠のフラストレーションがあるのだが、言葉を弄してなんとかこの寂しさを埋めたい、どうにかしてこの心の穴を埋めて永遠の安定を得たいとするが、また息継ぎ的に欲求を満たすだけの無駄な時間が訪れるこの事実の、絶望と徒労と茶番は、僕たち人間によくあるという意味で、圧巻である。
正直、フォニイの考察ははっちゃけすぎたが、テーマがテーマなだけに仕方ない。結論としては、「如何して愛なんてものに群がりそれを欲して生きるの」かについての答えは、母親の愛を男性で埋めようとしているからである(男性的なもので埋めるので、女性的なものを求めても、永遠に埋まらない)。
ネクロフィリカル
こんな考察で大丈夫なのか心配で夜も眠れないのだが(センシティブというか正直キモ過ぎる)、けど確実にそこで描写されてるんですからね?仕方ないんですよ?むしろそういうのを作品にするんですよ?僕たちは。確実にあるけど普段は気を払わなくて、でも確実に存在する、根深い問題を。僕が変態な訳ではないです(逆に、ある意味僕を含め全人類が絶対的に変態です)。
それはそうとして、最後にネクロフィリカルに陥るのが面白い。これはキャットラビングもそうなのだが、これはボカロ曲というフォーマットが短いからだと考えている(ボカロ曲に限らず大抵の曲は5分前後。当たり前であるあが、楽曲は何かのテーマを表現するためだけに存在するものではないです。妥協という意味ではなくて)。
思想は、言語化するかぎりネクロフィリックにならざるを得ない。だからこそ、そこから具象化されるものがバイオフィリック(生命性・多様性)に富むことが指標になる。
— 名越康文 (@nakoshiyasufumi) 2012年5月6日
つまり、自分が抱いている愛の形に疑問を抱きながら、最後はそのスタンスを肯定してそこに留まり続けようとするのであるが、曲の最後に曲の全体をまとめようとすると、簡潔になり、表面的にはネクロフィリックになるのである(この記事もそうである)。
最後に、これまでと同じように、歌詞の一部を抜粋して、それがテーマに合致するという事を示すという事をやる。
・「色の目」
言の葉が言葉、事の果が事実だったので、色の目は色目である。
・「夜の電車が通り去っていく」
所謂、「終電逃しちゃった!」である。
最後に
明日はすしさんの記事です!今年のドベカレを主催してくださりありがとうございます!楽しかったです。
DDLCのサヨリに関するそこまで重要ではないネタバレを含む考察
このブログには子供に相応しくない内容、または刺激の強い表現が含まれています。
この記事は、UEC Advent Calendar 2022 - Adventar 9日目の記事です。
前日の記事は、型推栄 (@_jj1lis_uec) / Twitterさんの「GitHub - jj1lis/UEC_adCal2002: 一階命題論理を統語論と意味論から爆速で組み立てます。」です。
Ⅰ類の皆さんは連日こういうことをやっているのでしょうか。Ⅲ類の僕には難しすぎて分かりません。
こんにちは、こう(昼飯)です。毎週の理工学基礎実験に心と時間と体力をすりつぶされて、ある意味で電通大生らしい生活を送っております。
UECアドカレには去年に続き2回目の参加です。これは去年のアドカレ。
の、僕の記事。
こっちは今年のver.2。こっちも面白いよ。
はじめに
突然ですが、皆さんは普段どのようなゲームを遊ばれるでしょうか。RPG、FPS、ホラーゲームなど、ゲームには様々なジャンルがあります。電通大界隈では、最近ではポケットモンスター、スプラトゥーン、VALORANT等が流行っているでしょうか。
その中で、今回僕が紹介したいゲームは「ドキドキ文芸部(原題:Doki Doki Literature Club!)」です。端的に言うと僕が今年一番感動したゲームです(普段あんまりゲームやんないけど)。アドベントカレンダーは12月という一年を総括する時期に開かれるイベントであるので、1年を振り返るこの時期に今年一番感動したゲームについて紹介ししたい、そしてなにより自分の好きなゲームについての、クソデカお気持ち文章を書きたいという理由で、この題材を選ばせていただきました。
なお、このゲームについて何か知っている人も知らない人も、ネタバレについての問題に関しては、とても気になっていると思われます。そこで、このブログのタイトルを見て欲しいのですが、このブログのタイトルを、「DDLCのサヨリに関するそこまで重要ではないネタバレを含む考察」にしました。ようするにこのゲームの核心に迫る部分、物語のメインストリームとなっている部分については、全く言及しない形で記事を書いています。それでもネタバレを食らいたくないという方は、ブラウザバック推奨です(アドカレでそんな記事書くな)。
また、タイトルを見て貰えばわかる通り、本記事はこのゲームのメインヒロインの1人であるサヨリについての考察記事になっております。理由は序盤に多く登場するからなのですが、そんなことは抜きに僕がくっそ好きなキャラだからです。
また、ゲームとは別に、この記事は主に精神科医の名越康文先生のyoutubeチャンネルの実況を基に作成しているのですが、こちらも面白いので是非見てみてください。
ドキドキ文芸部(Doki Doki Literature Club!)とは
ドキドキ文芸部は、2017頃にTeam Salvatoによってリリースされた、詩の執筆をするという仕立ての元でで、詩を構成する単語によって条件が分岐していくという、画期的なシステムを備えたビジュアルノベルゲームです。マシュー・クランプ文化イノベーション賞を受賞し、1000万DLを突破している、大ヒット作品です。正直、ノベルゲームかと言われると、若干ずれているような気もしますが、ノベルゲームのような物、ギャルゲーみたいな奴、程度に思って頂ければよろしいと思います。
本作品には、一般的なギャルゲーよろしく美少女が登場するのですが、その物語を構成する4人のメインヒロインを紹介したいと思います。名前は、サヨリ・ナツキ・ユリ・モニカです。
1.サヨリ
主人公の幼馴染で、文芸部の副部長。属性はいわゆる「バカの子」で、好きな詩のタイプは、感情豊かな詩。
2.ナツキ
カップケーキを作るのが得意な文芸部の最年少。属性は「ツンデレ」で、好きな詩は「読みやすくて、ガツンとくる」タイプの詩。
3.ユリ
生粋の文学少女かつコミュ障。属性は「クールビューティー」で、好きな詩は表現技法を凝った象徴的な詩。
4.モニカ
みんなからの信頼が厚い文芸部の部長。属性は「高嶺の花」で、好きな詩は構成力があって哲学的な詩。
以上4名と主人公の絡みによって、本ゲームは進んでいきます。
本稿で論じる部分のストーリーのあらすじ
以下、ネタバレ注意
既にストーリーを知っている方は読み飛ばして頂いて結構である。本稿で扱う部分は、ゲームの最初から、主人公がサヨリに告白するシーンだだ。まだ知らない方は、以下の引用文風のあらすじを読んでいただきたい。
主人公は部活に何も入っていない男の子。高校2年生の始業式、主人公は最近寝起きが悪い幼馴染の女の子、サヨリに文芸部に誘われます。その文芸部にはサヨリを含めた4人の美少女。主人公は彼女たちと楽しい部活生活を送るために、文芸部に入る事を決心します。
詩作等の部活動、そして文化祭の準備を通して、主人公は文芸部の女の子と徐々に仲良くなって行きます。しかし、主人公が自分以外と仲良くなろうとして自分からだんだん離れていっている事を見抜いたサヨリは、ある日体調を崩しているかのようにして、部活動中に帰ってしまいます。その事を案じて、後日サヨリの部屋へ出向いた主人公に対して、サヨリは自分が重いうつであった事や、自分の心の中の矛盾について、主人公に伝えます。その後、主人公はサヨリと自分との今後の関係性について、とある告白をするのでした。
このブログが本当にやりたい事
このブログはDDLCに関する諸々の伏線を紐解く事に関しては、全く興味を示していない。抜粋しているストーリーの部分で、その事はお判りいただけていると思う。本ブログの目的は、サヨリがうつを患っている事を軸に、サヨリがただのうつではない事、サヨリが抱えている心の闇の深さ、過剰適応を筆頭とするサヨリを取り巻く状況の悲壮さ、サヨリに関する力動論的な視点から、サヨリの過去等を明らかにすると共に、それを通して、サヨリがいかにキャラとしていびつであるかと言う事、サヨリの精神の異常性、サヨリがどれだけ可愛いかを読者に紹介する事である。まずはうつ病について語る前に、サヨリのうつ病とはあまり関係ない周辺的状況について語りたい。テーマは、「サヨリは友達がいない」「サヨリはクズである」「サヨリは深刻な矛盾を抱えている」である。
サヨリは多分友達がいない
さて、いきなりずいぶんな言い分であるが、僕はサヨリは文芸部以外にはおそらく友達がいないと考えている。理由は、サヨリの自室にある。主人公によれば、サヨリは小さいころから部屋が変わっていないという。それは思春期の高校生としてはある種異常で、普通は周りと共有する趣味に沿って、部屋のオブジェクトも変わっているはずである。それが無いという事は、サヨリには文芸部以外に会話をする友達がいないという事である。高1、高2と、主人公とはクラスが違ったようであるし、その事を主人公が知らなくても不思議では無い。というより、主人公も含めて、モニカ以外の文芸部員は大体友達がいない(主人公はストーリーにおける初日、放課後一人で取り残されていた)。そういったところも、つまり文芸部が人間関係のゴミだめのようになっている点も、僕が文芸部が好きな所以である。
サヨリはクズである
サヨリはクズである。具体的に言うと、周りの人間を自分が悪者にならないように操ろうとする癖がある。分かりやすいところで言うと、例えば主人公を文芸部の新入部員として紹介しようとした。また、ユリが主人公に本をプレゼントした時には、「ユリちゃんと主人公はステキな友達になれるよ!」と言う風に、ユリと主人公が恋愛的な関係に発展しないように先制攻撃したりしている。また、主人公が文化祭の前日に他の部員と仲良くなろうとしていた所では、サヨリはその二人の仲に割って出るような行動をした(しかもその時に言ったセリフが、「ただあいさつしに来ただけだから」である。そんなわけがなかろう)。このように、サヨリには、無意識的か意識的かの内に計画を練って、自分の都合のいいように周りを操ろうとする癖があるが、ある意味で自分もその策略に巻こまれて、痛い目にあったりしている(主人公を文芸部に連れてきたことが、うつの悪化につながった等)。
サヨリは深刻な矛盾を抱えている
サヨリには、「他人を幸せにしたい」という願望がある。一方で、「主人公君を自分の物にしたい」という思いも持っている。本ゲームの抜擢部分においては、この2つの願いの間で揺れ動くのが、サヨリの主な筋書なのだが、これについては「メランコリー親和型」や「過剰適応」等のキーワードを用いて、適宜論じていく。では、サヨリのうつについて論じよう。
サヨリの"うつ病"を診断する
前述の通り、サヨリは自分がうつ病であることをカミングアウトした訳だが、これがどうも怪しい。サヨリが精神科で診断をちゃんと受けたのか、それとも自己診断をしたのか、また、親はこの事をどこまで知っていて、サヨリと親はどのように治療に臨んでるかなどの情報が全く無い(そもそもサヨリの親についての描写がゲーム上に無い)。もちろんサヨリが自己診断でうつ病だと言った場合、実際には別の病気である可能性も十分にある。ここでは、ゲーム上に出たサヨリのうつ症状の描写や、周辺情報から、サヨリのうつの種類、うつの度合いを確定させたい。
サヨリは精神科にちゃんと行っているか
近年は勝手に自己診断してうつだと言い張っている人も多いだろうし、うつに関しての本筋の前置きとして、このことについて考えておきたい。結論としては、サヨリはちゃんと病院に受診していると考えた。理由は、サヨリが文芸部の設立に携わった点にある。果たして、うつ病患者が新しい事を始めることが出来るだろうか。つまり何が言いたいのかと言うと、サヨリはこの時、精神科による治療によって、うつが回復しつつあったのではないか。精神科に通院する事によって、文芸部設立の手伝いをすることが出来たと考えたのである。これまでは部活に入っていなかったようだし、明らかにこのタイミングで精神が回復している。
うつ病の診断基準
もちろん僕は臨床家でも無ければ心理学者でもなく、ただの理系大学のB2である。そのため、僕がするうつ病の考察には全く信憑性がないし、真に受けてはいけない。こじらせオタクのコンテンツ語りの一環として楽しんで欲しい。
ここで用いる診断基準としては、DSM‐Ⅳを用いる。理由は、DSMが国際的な診断基準かつ一般的に使われている基準だからである。ICDもDSMとほぼ考え方が同じだし(つまり特定の症状の個数と持続年月から操作的に診断する診断基準であるという事)、伝統的診断もその症例がほぼDSMに含まれているからである。なお、なぜⅤが出ているのにⅣを使うのかと言うと、僕が読んだ本が古くてⅣについてしか書かれていなかったからである。ご容赦願いたい。
DSM‐Ⅳは「大うつ性エピソード」の程度によってまずうつ病(大うつ病性障害)かどうかを判断し、その後にその他の可能性(気分変調性障害、小うつ病性障害、抑うつを伴う適応障害、健康的な範囲の抑うつ)を考える物である。
DSM-Ⅳの大うつ性エピソードは以下の通りである。
- 抑うつ気分
- 興味・喜びの減衰
- 食欲低下・著しい体重減少
- 不眠(過眠)
- 焦燥・制止(動きに落ち着きが無い・のろい)
- 連日の易疲労性・気力の減退
- 不適切な無価値観・罪責感
- 思考力・集中力の減退・決断の困難さ
- 希死念慮
この内、1,2どちらかを含めた5つが2週間以上続いていると、大うつ病性障害となる。また、大うつ病性障害程では無いとはいえ、一日の大半がうつ病的な気分かつその他うつ病的な症状が2個以上あり、それらが2年間以上続いていると気分変調性障害となる(つまり症状が軽くてもそれが長い間続いちゃっていると病気と言わざる負えないよね、ということである。それとどちらも2で分かりにくいのだが、大うつ病性障害が2週間、気分変調障害が2年間である)。そして、大うつ性エピソードの1と2を含む2個以上が2週間続いていると小うつ病性障害となる。その他に、明確なストレス因があるストレス障害があり、小うつや気分変調性障害よりも軽くなると健康的な範囲と診断される。
以上ように、DSM‐Ⅳは類型診断であり、その上原因には全く注意を払っていない。そのため、DSM‐Ⅳを用いる事によって、サヨリのうつ病の経緯を深く知ることが出来る訳では無い。
サヨリのうつ症状の候補
サヨリのうつ病の症状の候補として、ゲーム中に描写されている物を上げていきたい。
1.過眠
サヨリに関する伏線として、ストーリー中の序盤も序盤から描写されていた症状である。サヨリは朝起きれない事が原因で、よく遅刻をしていた。
2.抑うつ
当然これも含めるべきである。サヨリは笑顔の裏に常に抑うつ的な物を抱えていたかのような描写がされている。
3.無価値観・罪悪感
サヨリは自分を他人に気に掛けられる価値もない存在として自分をとらえていて(無価値観)、他人を幸せにするという彼女の価値観を成し遂げられない時や他者に気遣われてしまった時に罪悪感を感じていた。
サヨリの除外診断
うつ病の診断には、まず除外診断が大事である。そのため、サヨリに当てはまりそうなうつ病以外の病気の可能性について考えたい。
1.適応障害
うつ病と症状が似通っている病気であるが、明確なストレス因がサヨリの場合示されていないので、おそらく適応障害では無いだろう。
2.双極性障害
サヨリの場合、元気な時はうつ症状を全く見せていなかったので、躁とうつを繰り返す双極性障害を疑われそうだが、元気とはいえ躁的エピソードが無いので、おそらく違う。それでもサヨリが主人公にうつ病をカミングアウトする直前までうつ症状を見せなかったのには違和感があるが、僕はこれは"過剰適応"から来る現象だと思う。それについては後で論じる。
3.起立性調節障害
自立神経系の異常により、立ち上がったときに血圧が低下したり、心拍数が上がり過ぎたりする病気で、思春期に多い。これが原因で朝起きれなくなったりする(逆に昼以降は活動できたりする)。サヨリの場合、布団から抜け出ることが出来ず、学校の始業に間に合わなそうになるというのは、まんまこの疾患に当てはまるようにも思えるが、本人の他者とのかかわりや自己肯定感に関する問題が全く説明できない。そのため、否定はできないが、他の要因もありと認めなければならないだろう。
サヨリをDSM-Ⅳに当てはめてみる
いよいよここでサヨリをDSM-Ⅳの基準と照らし合わせてみる。結論から言うとサヨリは小うつ病性障害と診断される。各項目とサヨリの状態を比較していく。
- 抑うつ気分 ←隠してはいたが、2週間以上あるとみてめてよいだろう〇
- 興味・喜びの減衰 ←サヨリが何に興味を示していたか分からないが、あると言えなくもない△
- 食欲低下・著しい体重減少 ←無い×
- 不眠(過眠) ←過眠もあると言えばあるが、それは抑うつ気分から来ているということが、サヨリ本人から言及されている。ここでは×
- 焦燥・制止(動きに落ち着きが無い・のろい) ←無い×
- 連日の易疲労性・気力の減退 ←あると言えばなくも無いが、あまり見受けられない×
- 不適切な無価値観・罪責感 ←滅茶苦茶ある。〇
- 思考力・集中力の減退・決断の困難さ ←寧ろ思考はちゃんと回っているのが恐ろしい×
- 希死念慮 ←あるかどうかわからないが、言及はされていない△
結果は、〇2つ、△2つ、×5つである。以上を考えると、大うつ病性障害は絶対ない、正直言って小うつすら怪しいくらいである。僕が出した結論は、サヨリは"小うつ病性障害と言えなくもない鬱状態"である。
サヨリの鬱の原因
さて、サヨリが小うつ病性障害であったという事は、つまり全然重くは無いが、かといって間違いなくうつ病と言える(ほかの疾患は当てはまらない)うつ病といことである。では、サヨリをうつ病に導いた要因として何が挙げられるだろう。実は、サヨリがうつ病になった原因については、ゲーム中に全くと言っていいほど描写が無いのだが、サヨリと主人公の周辺状況から、なんとか割り出してみたい。
サヨリにおける”helplessness性”について
まず、どんな時に人がうつ病になりやすいかについて考えたい。人がうつ病になる要因としては、”helplessness(途方に暮れた状態)”が挙げられる。helplessnessとは、ビブリングが精神分析の観点からうつ病の状況因について論じる時に用いた彼の理論の中核をなす概念である。
彼によれば、うつ病者は、元々「価値ある存在である」「他者より勝っていなけらばならない」「自分は善人でなければならない」等の、自己の在り方に関する、熱烈な願望を抱えていたとされる。この時、これらの目標を自分はどうやっても達成できない、成し遂げる事が出来ないと思ったときに、途方に暮れて、"helplessness"に陥るのである。この、"helplessness"がうつ病の直接的な原因とされる。
では、サヨリにおけるhelplessnessにつながる願望と何であろうか。それは、「自分が他者を幸せにしなければならない」という理想的な願望である。ストーリー上では、これが達成されない事に対して、サヨリは絶望を抱いていた。しかし、サヨリがうつ症状(朝起きれない)を示し始めたのは、1年ほど前であるので、時系列が合わない。もう少し詳しく見て行こう。
養育環境の力動論
続いて、サヨリがどのような家庭環境で育って来たかを考えたい。まず、サヨリの親は、ストーリー上には全く描かれていない。そこから逆に考えれれるのは、サヨリの親はサヨリに対してあまり干渉しない親なのだろうという事である。例えば、主人公がサヨリの家に来るときも、一直線でサヨリの部屋まで行っており、サヨリの親と挨拶のような物を交わした雰囲気が全くない。また、サヨリが毎朝遅刻しているのも、恐らく放置している。
かといって、サヨリは親に放っておかれてるわけでもなさそうである。サヨリがもし精神科に行っているとしたら、高校生が一人で行くわけが無いので、恐らく親と一緒に行っているのであろう。ここから浮かび上がるのがサヨリの親像としては、サヨリにあまり干渉しないが、親としての役割は最低限果たしているような親というのが適切であろう。
ここで、一般的にうつ病になりやすい養育環境について論じておきたい。うつ病者の養育環境については、テレンバッハやケンドラー等によって様々に議論されているが、ここではアブラハムやアリエティによる力動論的な観点から考えていきたい。
彼らによると、うつ病患者における養育環境は次の順番で起こるという。
- うつ病者は乳児期には、親によって喜んで世話され、色々な物を与えられる。
- しかし、親の世話は次第に熱心さを失い、子供は心的外傷を負う
- その後、子供は自分が親の期待を達成することによって、親の愛を得ようとする
- この性格のまま成長することによって、自分がある役割をこなそうとするような性格になる。
- 結果、この子は、役割に過度に同一化するような、理想を追い求めるような人間として出来上がる。
勘のいい人は気づいただろうが、この「役割に過度に同一化するような、理想を追い求めるような」状態と言うのは、"helplessness"の議論につながる。
つまり何が言いたいのかと言うと、サヨリの「私は他者を幸せにしなければならない」というある種フィクション的な願望を持つに至った経緯としては、サヨリの親が以上の力動論で論じた養育環境をサヨリに与えた事があげられると言いたいのである。
この事は、サヨリのうつの原因がhelplessnessから来ているわけだは無さそうな点と矛盾しているようにも思えるが(サヨリが役割同一型の願望を持っている事とは矛盾しない)、僕がサヨリの親が「アリエティの力動論的親」であったと考える理由は、もう一つある。それは、本編における、サヨリと主人公の関係である。
主人公はサヨリの最も恐れていることを時間をかけて再現した
サヨリが本編中で語った主人公との思い出としては、サヨリが主人公に小さいころ様々な形で助けられた事等があげられる。また、ストーリーの前提として、小さい頃はよくお互いの家にいくような親密な関係であった事が示されている。
しかし、主人公は高校入学あたりから、サヨリと登校しなくなっている。このことから、主人公はサヨリに対して、アリエティが論じた、一度世話をやいてからだんだん離れているといくという、うつ病を誘発しやすい親の行動と同じような振る舞いを、サヨリに対して行っていたのである。もちろん、主人公がサヨリと登校しなくなったのは、サヨリが寝坊するようになったからなので、これがうつの原因とは言えないが、サヨリのうつをより酷くしたのは間違いないであろう。というより、サヨリはことあるごとに主人公に対して自分の面倒を見るように懇願しているかような描写がある。このことから、明らかにサヨリは主人公が自分から離れていくことに対して恐れているようであり、このことが、サヨリが幼少期に親から同じ状況に置かれたという事を示唆しているように感じる。
うつ病ポテンシャルの3性格
サヨリのうつの原因について、今一決定に欠けるので、最後に大本命であるうつ病を誘発しやすい性格について論じていく。その性格とは、ずばり「メランコリー親和型」「ヒステリータイプ」「未熟依存型」である。
1.メランコリー親和型
メランコリー親和型とは、一言で言えば、周囲からの要請や願望に対して積極的に順応していく性格の事である。周囲からの要請や願望とは、つまり「自分は仕事で成果を残さなければならない」や、「自分は他人を幸せにしなけらばならない(これサヨリ)」等という物である。この性格については、もちろん"helpressness"や養育環境の力動論と関係していると考えられている。
2.ヒステリータイプ
ヒステリータイプは、具体性や事実性よりも印象を大事にする、ロマンチックな物や恋愛を追い求める、愛する対象を理想化しやすい等の特徴を持っている。女性に多く、情動が不安定であり、役割に依存するメランコリー親和型とは違って、特定個人に依存する。
3.未熟依存型
この性格の人は、他者にしがみつき、常に愛情を求めようとする。この性格はフロイトの精神分析における口愛期的な問題を抱えており、幼児退行的な、ヒステリータイプより単純な(つまりただ単に未熟であるだけという)理由でうつに陥ることが多い。
1番については、より大うつ病性障害になりやすく、2,3番については、うつ症状は軽度になりやすい。
ヒステリータイプの力動論
さて、サヨリはこれらの性格のどのタイプに属するだろうか。結論としては、1と3である。サヨリの、主人公とより親密になりたいという強い願望は、特定個人への恋愛的同一化と言う意味で、サヨリがヒステリータイプを持つ事を示唆しているかのようにも思えるが、個人的にはそれは無いと考えている。
ヒステリータイプの要因としては、母親と女性性の幻滅であることが、力動論からあげられる。つまり、母親から愛されなかった、もしくは母親を愛せなかった事によって、母性的な愛について幻滅しているのである。これによって、ヒステリータイプの女性は(”女性”と言ってしまっているが、この性格についてはほぼ女性について論じられている上、サヨリも女性なので、このまま女性についてのみ論じていく)、逆に男性性的な物を求めるようになって行く(女性のエディプスコンプレックス)。しかし、彼女らは本当は女性性的愛を求めているのであって、男性からは真の満足を得られることが無く、転々と相手を乗り換える事が多いとされる。
この部分がサヨリと異なっているのである。サヨリには、母親への幻滅があまり感じられ無い。まず、主人公に一図に思いを寄せている時点で、サヨリはヒステリータイプとは異なる。ヒステリータイプについての議論はこれくらいにして、メランコリー親和型と未熟依存型について論じよう。
サヨリのうつはどら焼き
サヨリがメランコリー親和型であることは、誰もが同意するところであろう。サヨリは明らかに社会的・一般的役割に過剰に同一化している。また、サヨリは未熟依存型的であることも間違いが無い。サヨリは、主人公に部屋を掃除して欲しい事や朝起こしに来て欲しい事等の、ある種幼児退行的な願望を抱いている。
さて、サヨリのうつの要因についてまとめよう。まず、サヨリがメランコリー親和及びhelplessness的要因によってうつになっているという説は、時系列的に矛盾することは、既に述べている。ところが、サヨリが「自分を犠牲にして他人を幸せにしたい」という、helplessness準備的な欲求を持っている事も確かである。そこで、サヨリにhelplessnessが2段重ねで起こったとしたらどうだろう。つまり筋書きは次の通りだ。
- サヨリは養育環境の力動論的親によって、「他人を幸せにする」という願望を持った、メランコリー親和型性格になる。
- 幼少の頃は友達もいたが、中学に上がるにつれ、趣味の停滞や、役割準拠の行動による違和感により、友達が徐々にいなくなる。
- この「他人を幸せにしたい」という欲求はある種他人に愛されたいという欲望の裏返しであるので、徐々にうつ状態になる。
- 主人公と同じ高校に進学。2,3の状況が深刻になり、helplessness発生。本格的なうつ。朝起きれなくなる。
- その後、精神科に通院することによって、若干回復。文芸部に入部。
- 高2の新学期、主人公を文芸部に誘う。
- 主人公が他の部員と仲良くなっていく事、自分は実は主人公と仲良くなりたい事、他人を幸せにしたいという願望の間の矛盾により、うつが悪化。2回目のhelplessnessの危機に陥る。
- サヨリが主人公にうつを告白。
これが、僕が考えたサヨリにおけるhelplessnessの筋書である。また、この間に未熟依存的な、つまりただ単に主人公に甘えたいという内容のうつも含まれている。つまり、結論を言うと、サヨリのうつは次のようなどら焼き構造をもっているのである。
補足としては、サヨリがメランコリー親和的な性格を身に着けるのには、どうにも養育環境の力動論的親を想定しないと理由が見つからない点、サヨリが他人を幸せにしようとしたのは、サヨリなりに未熟依存型的な性格を補おうとしたからかもしれない点、サヨリが文芸部に参加した理由としては、新たに友達を探す場所を求めていた事が挙げられるかもしれない点、メランコリー親和的な性格の割にうつが軽度なので、もしかしたら一回目のhelplessnessはだいぶ軽度だったかもしれない点があげられる。
うつ病性格の一般論
すでに何度も論じた、メランコリー親和型、ヒステリータイプ、未熟依存型に、現代型うつ(周囲の環境に合わせて何となくうつになるタイプのうつ)を合わせた4つは、「エネルギーの高さ」と、「依存する枠組み」によって座標上に図示することが可能である。既にメランコリー親和型、ヒステリータイプの2つが、役割に依存↔特定個人に依存の対立になっている事は述べた。このような図式を4つ全てに用いると、次のように位置づけできる。
ただ、サヨリの場合未熟依存的な要素とメランコリー親和的な要素の2つを持ち合わせており、その未熟依存的な部分を、メランコリー親和的な行動によって、なんとか適応させようとしているような節がある。この2段構造が、サヨリのいびつ性の代表例と言える。
ああ 取り繕っていたいな
さて、うつ病についての話題はこれくらいにして、続いて過剰適応についての話題に移りたいと思う。過剰適応とは、精神科医の名越康文氏が自身の臨床経験を基に作り上げた概念で、ある環境や他者に自身の行動や考え方を度が超えるほど適応させている状態を指す。一般的には過剰適応は他者、例えば周りの友達のノリに無理をして合わせている状態等を指すが、サヨリの場合、それも含めた3つのものに過剰適応していると考えられる。
サヨリにおける過剰適応
サヨリが陥っている3つの過剰適応は、「他人を幸せにするという役割への過剰適応」「他者に好かれるような自分になるという過剰適応」「自分は無理をしていないという過剰適応」である。
1.他人を幸せにするという役割への過剰適応
もう説明はいらないであろう。
2.他者に好かれるような自分になるという過剰適応
サヨリは事あるごとに「えへへ~」等と言って、馬鹿の子的なキャラを演じていた。正直言ってどこまでが過剰適応でどこまでが素なのかが分からない(そこが過剰適応の恐ろしいところなのだが)が、サヨリがうつをカミングアウトする時、自分が自分の感情を押し殺していたというような内容の事を言っていたので、ある程度演技をしていたのだろう。また、小学生の時から部屋の時間が止まったままであるかのようなサヨリが、他者と関わる時は、ある程度の適応を強いられるのは当たり前ともいえるだろう。
3.自分は無理をしていないという過剰適応
つまり自分は過剰適応なんかしてないよという過剰適応である。サヨリの「他人を幸せにするという役割への過剰適応」には、自分が他者の為に頑張っている事を悟られないようにしたいという物も含まれている。つまり、サヨリは他者に気を使われたくないのだが、サヨリが自分の弱みを見せると、他者が自分に気を使ってしまうと思っているのである。この、「他人は自分に絶対注意を払ってはいけないが、自分は他人の事を常に気にかけて幸せにしなけらばならない」という、悲壮的なまでにメルヘンチックなサヨリの幸せの定義は、自己肯定感の低さから来ているのか、はたまた養育環境の力動論的親の影響からなのか、はたまた基底欠損からきているのか分からないが、いずれにせよこれがサヨリの自分の弱いところを見せないという過剰適応に繋がっているのである。
過剰適応の2段底
過剰適応には2段底と呼ばれる現象が起きる。それは、自分の過剰適応を取り払おうとしても、結局過剰適応に陥ってしまう症状の事である。過剰適応とは、つまり本来の人格の上に別の人格をかぶせているかのような状態の事だが、過剰適応が進むと、無意識レベルで過剰適応してしまうので、ついに本来の人格が擦り切れるように消えてしまうのである。このとき、表の人格を取り外そうとする、つまり自己開示をしようとすると、本来の人格すら過剰適応してしまっているので、その自己開示ですら過剰適応的な薄っぺらい物になってしまうのである。あるいは、自己開示をしようとしている時点で、ある意味強い意図をもって行っているはずであり、その意図が過剰適応の人の場合当然過剰適応になってしまうため、自己開示ですらなにか意図や計画を持った適応的なものになってしまうのである。これが、過剰適応の2段底である。
サヨリの場合、主人公にうつを告白する時に、「えへへ~」と言っており、つまり自己開示の時ですらうすっぺらい外側の性格でしか語ることができないという、過剰適応の2段底に陥っていると言える。
床にぜんぶ、散らばるシアワセ、シアワセ、シアワセ
サヨリの詩を、過剰適応を用いて解釈していきたい。もしかしたら著作権に抵触する感も知れないので、一部抜粋で解説する。
ビン / サヨリ
ともだちが何かを感じて仕方がないとき、
こういうときにビンが役に立つのよ。
つまり、他者が何か不幸や困難に直面している時に、その人を幸せにしようとしているのである。
だけど渡すたびに、足もとのタイルで粉々になっていく。
床にぜんぶ、散らばるシアワセ、シアワセ、シアワセ。
これは、過剰適応の不吉な将来を示している。つまり、自分が他人の為に頑張っても、それがうまく結実せず(つまりたとえ相手が"シアワセになっても"、自分はそれを感じ取ることが出来ない)、途方に暮れているのである。
ただ聞こえるのは残響、残響、残響、残響、残響
わたしの頭の中で。
過剰適応により、感情を実感をもって感じることが出来ず、空っぽのままなのである。
きゅうくらりん
きゅうくらりん / いよわ feat.可不(Kyu-kurarin / Iyowa feat.Kafu) - YouTubeが、DDLCのサヨリをモチーフにしている事は、youtubeのコメント欄等でも言及されているので、周知の事実であろう。そこで、サヨリの考察の総括のような物を、きゅうくらりんの歌詞に沿って、行っていきたい。
もちろん全文引用するわけにはいかないので、またもや一部抜粋方式になる。
きっときっと鏡越し
つまり、主人公に対して面と向かって話せていないのである。もちろん恥ずかしいから照れて顔が見れない、等という物では無く、過剰適応により、どこか偽りの自分で主人公に接しているという事である。サヨリが、どこか俯瞰したような目で世界を見ているのがここから分かる。
ピンクの植木鉢の ぐちょぐちょした心のそばに
大きく育ったもの
植木鉢(サヨリの部屋にある物)に育った健全な恋心の"そばに"、主人公を独り占めにしたい、自分の底知れない闇を主人公で埋めたいという、ある種未熟依存的な、つまり精神的に不健全で危うい願望を孕んでいるという事である。
ああ 化石になっちまうよ
主人公への恋心が、長年の過剰適応やうつによって埋もれていって、その原型をとどめたままカチカチに乾いてしまうという事だろう。
喜びより 安堵が先に来ちゃった
この歌詞が示しているのは、恐らく主人公が他の女の子と仲良くなりたがっている事が明らかになったシーンについてを指している。サヨリは他者に幸せになって欲しいと考えていた訳だが、特に主人公に対して他人と関わって幸せになって欲しい願願っていた。そうすると、この状況はある種サヨリの願望が結実した訳で、本来はサヨリは喜ぶべきなのだが、サヨリは安堵してしまっている。安堵とは役割を終えた事への安堵であり、それは結論が出たという意味で、裏返せば絶望である。また、サヨリは主人公が他の女の子と仲良くしたがっている事を喜べなかった事について、自分はなんて駄目な人間なんだと罪悪感を抱いており、ここもサヨリの悲しいところである。
底なしの孤独をどうしよう
基底欠損である。基底欠損とは基底的信頼感の欠如であり、マイケル・バリンドの言う一次愛の欠落である。つまり、母子関係において愛情を受けられなかったために発生する心的構造の欠損であり、未熟依存的性格とも関連してくる。サヨリの精神の最後にはこれがあり、基底欠損の影響で、サヨリは主人公に自分の穴を埋めて貰おうとする。もちろんストーリー上ではこの基底欠損から来る願望は、メランコリー親和的性格によってずっと抑圧されており、八方塞がりな状態である。
終わりに
本稿ではサヨリのうつの力動論的な考察にその大部分を割いたが、さよりの本質はただのうつではなく過剰適応や、メランコリー親和的性格そのもの、基底欠損、そしてもちろん主人公への恋心等が複雑に絡み合っている点なので、他の部分も読んでみて欲しい、です、まる。本稿を通じて、サヨリの可愛さが伝わったら嬉しいです。
明日(12/10)は本棚さんによる、「夜のモナコ調布店からモナコ川越店に歩いて開店凸した話」です。是非お楽しみください。
参考文献
まわりにあわせすぎる人たち /康文, 名越, ロブ@大月
Unity初学者の気を付けるべき点
この記事は、UEC Advent Calendar 2021 - Adventar 9日目の記事です。
前日の記事は、Mr.Mountainさんの「身の上話とメンタルヘルス」についてでした。
選択肢を多く持っておく事は安心にもつながりますからね。人生山あり谷ありです。山だけに。
こんにちは、こう(昼飯)です。AdbentClenderにはこう(アマテラス氏)で登録しておりましたが直しました、こう(昼飯)です(以下ブログ主)。
プロフィールはtwitterに書いてありますのでこちらを参照
https://twitter.com/hirumeshikuuya
ブログ主は先日創立記念日だったのにもかかわらず数学演習と物理学概論の試験だったのですが、見事に爆死しましたね。3桁÷3桁の分数の5/2乗を計算しろってどういうことだよ。
はじめに
私のアドベントカレンダーではUnity初学者にありがちな勘違いやジレンマについて話させていただこうと思います。理由は書くネタが無かったからです。
わざわざこの話題を選んだということはブログ主はUnityについての造詣が深いのでは、と読んでる方はお考えになるかもしれません。しかし、なんとこのブログ主、まだUnityをインストールしてから1年もたっておりません。本格的にUnityを始めたのはたったの一ヶ月前です。
そのため、このブログは初心者の為にUnityを学習するにあたって気を付けるべき点を解説する、というよりは今僕がリアルタイムで困っている事をつらつらと書き連ねていく、という形式となっておりますがご了承ください。
前置きが長いのもよろしくないので早速本題に入っていきます。短いので最後までお付き合いください。
Unityとは
Unityとは、Unity Technologiesが開発・販売している、IDEを内蔵するゲームエンジンです。要するにUnityを使えば比較的簡単にゲームが作れます。ニッチなインディーゲームから白猫プロジェクトやポケモンGOなどの超有名タイトルまで、幅広いゲームでUnityが使われています。ブログ主がはまっているAmongUsもUnityで作られています。
以下Unityの概要とAmongUsの布教↓
Unityダウンロードページ
Unityについての分かりやすい説明
AmongUs公式ホームページ
さて、そんなUnityをブログ主が最近勉強しているわけなのですが、何かを習得しようとするとそれを妨げるような落とし穴が初学者の学習を妨害してくる事実は古今東西変わりません。
そんな訳で、Unity初学者がつまずきやすい点や抱え込みやすいジレンマについて、初学者目線から、解説していこうかなーと思います。
では早速本題に。
Unity初学者が躓きやすい点や陥りやすいジレンマ6選
1.Unityってプログラミングでゲームを作る物じゃないの?
Unity初心者が最も抱え込みやすい勘違いと言っても過言ではないでしょう。ゲームを作るというと、どうしてもプログラミングで作るというイメージがぬぐい切れません。実は5割方それで合っているのですが、事情はもう少し複雑です。それにはまず実際のUnityの画面を見ると分かりやすいでしょう。
こちらがUnityを始めて開いた時に現われる画面です。
Unityの画面は主に、
- ヒエラルキーウィンドウ:ゲーム上に出てくる登場人物やキャラクターなどが一覧で出てくる場所。
- ゲームシーン:実際のゲーム上でどうなっているかを見ることができる場所。
- インスペクターウィンドウ:ゲームに出てくるキャラクター等の、現在の座標、貼り付けられている写真、物理的な挙動など、キャラクターについての情報が載っている場所。
- プロジェクトウィンドウ、及びコンソールウィンドウ:ゲームの素材等が置いてある場所。コンソールウィンドウはコードの間違っている部分を教えてくれる等の場所。
と、ざっくりこんな感じになっています。
これが、ゲームの開発が進むと、下図のようになります。
さて、先ほどの④のプロジェクトウィンドウに注目して欲しいのですが、このプロジェクトウィンドウには、Twitterのハッシュタグのようなものが沢山ならんでいると思います。これが何なのかというと、C#Script、つまりゲームのプログラミングの部分です。
このC#Scriptを書くことで、ゲーム上のキャラクターを動かしたりすることが出来ます。
しかし、先ほども述べましたように、Unityではプログラミングの部分を書くだけではゲームは完成しません。Unityでゲームを作るにあたって大事な要素として、プログラミング部分の他にもう一つ、インスペクターウィンドウに載っているコンポーネントという物があります。
これはGameObjectやPrefab(ゲーム上に出てくるキャラクターや敵)に背負わされている情報のような物なのですが、例えば、上のアヌビスのような形をしたキャラクターの例では、Transform,Box Collider,Rigidbodyのようなコンポーネントがインスペクターウィンドウに並んでいます。(図参照)
各コンポーネントの実際の機能としては、
- Transform:GameObjectやPrefabのx,y,z座標、回転、拡大縮小等の情報を担う物。
- Colider:オブジェクトの当たり判定に関する物。
- Rigidbody:オブジェクトに物理的な挙動を加える物。例えば上のRigidbodyの「Use Gravity」の欄にチェックを付けると、オブジェクトが重力を受けたような挙動を受ける。
という仕様になっています。
これらコンポーネントがゲームにとってどれほど大事かは説明するまでもないでしょう。
また先ほど説明したC#Script(プログラミング部分)もオブジェクトのコンポーネントの一つとして扱われます。
ではUnityでScriptとコンポーネントが実際にどのように使われているかどうかについて、自機の操作を用いて説明します。
まず、このゲームのヒエラルキーウィンドウ(先ほどの①)上にjetというGameObjectがありますが、これが自機です。このGameObjectにはTransform(座標や向きを決める)とC#Script(プログラミング部分)のコンポーネントがアタッチされています。Transformには現在の自機の座標の情報が入っています。
次にプログラミングでTransformの値を操作していきます。下図自機のC#Script。
色々ごちゃごや書いてますが大事な部分はここの部分です。拡大個所では、Transformのコンポーネントの値を取得して、それを実際に操作しています。
ここで書かれている"transform.position.x"が、自機のx座標の値です。ここでは、自機が画面内ならカーソルキーを押すと自機の座標(transformの値)が押したカーソルキーの方向に増えたり減ったりします。時機の座標が変われば当然実際の自機もゲーム上で動きます。こうして、
自機が動きました。キモチィィィィィィィィィィィィィ!!!!!!!!!!!!!
この、
- GameObjectやPrefab(ゲーム上のキャラクター)がある。
- キャラクターに、コンポーネントがアタッチされている。
- コンポネントのある値や項目を、プログラミング上で取得・操作する。
- キャラクターが動く
という基本的なステップが分かっていないと、基本的に何をやっていいのか分かりません。Unity初学者はどうしても色々調べてプログラミング側でなんでもやってしまおうとしてしまいがちですが、そのプログラミングも、コンポーネントの値や項目を前提として組まれているので、コンポーネントを使いこなせないと、基本的にゲームを作る事は出来ません。本を読んでも、この本がいったい何をやろうとしているのか、今自分が書いているコードは一体どういう関係で実際のゲームとつながって来るのか、全く分からなくなってしまいます。
Unityをこれから学ぼうと思っている人は、是非上の4ステップを頭に入れてから、学習に臨んでください。
追伸:Unityには沢山コンポーネントがあるのですが、その中で3D,2Dオブジェクトでは基本的に限られたコンポネントしか使いません。これまで「ColliderとRigidbodyしか使えなくて、Unityのほとんどの機能を活用出来てないんだろうな」と思っていたのですが、そうでもなかった(他のコンポーネントはTextやSlider等、UIや特別なオブジェクトにそれぞれ限定して付随するコンポーネントなので)。後、インスペクターウィンドウのコンポーネント選択からNew ScriptでC#Scriptを開いてコードを書いても全く動かないんだけどあれはどういう仕様なんだろう。
2.ゲームを作るのに適しているのは本当にUnityなのか?
これはUnityを始めるにあたって多くの人が抱える疑問でしょう。ゲームをこれから作ろうと思っても、Unityが便利かつ余りにも有名なので、なんとなくでUnityを始める方がほとんどだと思われます。
ブログ主がこの疑問をもったのはちょっとだけUnityの勝手が分かったころでした。先程のスクリプトとコンポーネントの関係が分かった辺りで、ブログ主はこう思い始めたわけです。
「あれ、もしかしてUnityって汎用性あんま高くない?」
Unityはコンポーネントという、オブジェクトの操作が簡単に分かりやすく行える機能が付いているのはいいのですが、それならUnityで行っている事を一からプログラミングで出来た方が将来役に立つ?等と考えてしまう訳です。
Unityを始めるくらいですから、ブログ主には技術職やITへのあこがれが少なからずある訳です。そんな中、Unityの動作原理を理解しないまま使っている事実、ひいてはUnityがプログラミング能力があまり無い人向けの子供だましですらある可能性に、ブログ主は後ろめたさとやるせなさを感じていた訳です。
そんな僕のジレンマは、
「一流の大工は、自分で工具を作れる訳ではない」
「一流の料理人は、自分で調理器具を作らない」
という気付きであっさり解決します。
ようはUnityを使いこなせればいいのです。
今ブログ主はPUN2(Photon Unity Networking 2、ようするにUnityでオンラインゲームを作れる奴)の勉強をしています。それを使えば簡単にUnityでOnlineゲームを実装することが出来るのですが、それを使いこなせたとしてもネットワークの知識や技術が身につく訳ではありません。逆に言えば、ネットワークの知識が無くてもオンラインゲームを作ることが出来るのです。
これからゲームに限らず様々な方面で便利なエンジンが出てくる・若しくは既にあると思うので、それを十分に使いこなせるようになるのが一番建設的では?とブログ主は結論づけました。まずUnityも出来ね―奴が一からゲーム作れる訳ねーだろ
3. サンプルプロジェクトを一通りなぞらないまま始めると大抵躓く
中途半端にプログラミングの知識があったりすると、こうなるのではないのでしょうか。
ブログ主は弾幕シューティングゲームを作りたくてUnityを触り始めたわけですが、それまでは東方弾幕風という、東方っぽいシューティングゲームが簡単に作れる奴で遊んでました。
そのため、「angleの値をだんだんに変えて行って弾幕を~」というように、なんとなくシューティングゲームを作る事へのイメージが出来上がっていました。ブログ主はUnityをダウンロードして何となく基本機能を勉強して、自機が動くプロジェクトを引っ張ってきて、「さぁ!球を自機から発射させるぞ!」と意気込んだのですが、当時のブログ主では全く実現できませんでした。
「球を撃つためには、球のGameObject(ホントはPrefab)をスクリプトの方で指定して、条件分岐で球を自機に持ってくればいいなー」などと考えていたのですが、全くやり方が分かりません。(とは言いつつも大体方向性は合ってる。)
おまけに個々に必要な段階(Prefabの指定、球のコンポーネントの取得方法)等を個別に調べてちぐはぐに実装する始末。その時は人に聞きながらなんとか実装したのですが、もう一回出来るかと聞かれていたら絶対に出来ないと答えていたでしょう。(その時参考にした記事の一つがこれ)
当時の心情をブログ主のツイートが物語っています。
俺はどっちかっていうとUnityやりたいっていうよりやりたいことの為にUnity始めたからとりあえず色々無視して突き進んだけど、そりゃ行き詰る訳だな。
— こう(null) (@hirumeshikuuya) 2021年7月16日
この時質問しに行った人から、「まずは出来上がってるプロジェクトをそのまま写して学べ」と言われたので、言われたとおりにプロジェクトのサンプルを何個かそのまま写しました。すると自分の疑問点がそのまま実装されている部分を次々に見つけ、様々な問題が解決しました。
これからUnityを始めようという人は片意地はらずに、是非お手本のプロジェクトを一から勉強してみてくださいね。
4.スクリプトの分からない部分が、「Unity独特の物」なのか「C#の文法」なのか区別がつかない
先ほどUnityではコンポーネントが重要という話をしましたが、当然スクリプトの重要性も無視できません。そんなスクリプトの、実際に打つコードの勉強をするにあたって、ぶち当たる問題がこれです。
「お前は初めて見るけどUnityの住人なの?それとも俺の知らないC#の機能なの?」
UnityではC#の最初に書くusing(ラテフで言うパッケージみたいな物だと思っているけどどうなんだろ)の項目に、UnityEngineと書く必要が一般的にはあり、これを書くことによってUnity独特の機能が使えます。
つまり、Unityのスクリプトは、C#の元々の文法にUnityの機能が加わって出来ているのです。
そんな中スクリプトで初め見る単語に出会うと、それがUnity特有の物なのか、それともC#由来のものなのか分からなくなります。
使っているのがUnityEngineだけならリファレンスに載っているかいないかで判断すればまだ楽なのですが、何かのアセットをインポートして使っていると、悲惨です。
先ほど述べた通り、ブログ主は今PUN2(Unityでオンラインゲームを作れるアセット)の勉強をしているのですが、その中で新しい関数や機能が出てくると、何が何だか訳が分からなくなります。
Photon公式ホームページ
ブログ主が今参考にしているサイト
僕が学んだ「まずはサンプルプロジェクトより始めよ」の精神に則って、このサイトのプロジェクトを1から写している最中なのですが、その中に出てくるスクリプトが、まぁ悲惨です。
このスクリプトの上部に注目すると、usingにPhoton.PunとUnityEngineと書かれているのが分かります。
これは要するに「このスクリプト内ではUnity由来の物とPhotnPUN由来の物を使うよー」と言っているわけです。
例えば、スクリプトの森の中にブログ主が迷い込んだとします。そこでブログ主は、そこに住む森の住人に出会いました。もちろん今まであった事もありません。ブログ主は彼に名前を尋ねました。
「やぁブログ主の名前はこう(昼飯)。君に名前は?」
ところが森の住人は言葉を発せなかったのです。彼は、恥ずかしそうに僕に名札を見せてきました。
「そうか、君は『Init』って言うんだね!」
さぁ名前も分かった事だし、これから仲よくなろう!となった所で、
お前誰やねん
ブログ主はプログラミングについては条件分岐や繰り返し処理くらいしか分からないプログラミング弱者ですし、Unityについても初心者です。そんな中PhotonPUNという未知の領域を探索中に、急にIsit君に出会っても、「お前誰?」となってしまいます。
これの対策としては、事前にC#についての知識をちゃんと持っておくことで回避できるのですが、電通大に来ると同時にUnity始めたブログ主にとっては、あまり現実的ではないです。これから頑張って勉強していきます。。
5.NullReferenceException
さぁ初学者が出会いやすい落とし穴やジレンマもいよいよ最後です。今までの4っつに比べたらやや具体的な事例です。
”NullRefernceException” Unityを触ったことがある人は、この文字列を見たらほぼ間違いなく苦笑いをするでしょう。Unityでスクリプトを書くにあたって、初学者は様々な様々なエラーに出会います。
例えば、各行の最後に「;」を忘れているとか、
宣言されていない変数を使っているだとか、
等のエラーがありがちなエラーです。
これらのエラーは、スクリプトの変更内容を反映した時点でエラーとして出てくれます。また、(16,48)のように、何行目の何文字目に間違っている箇所があるのかも教えてくれます。さらに、例えば上の例だと" ; expected" 「ここに『;』が入るんじゃない?」等と、平易な英語でエラーの具体的な内容を教えてくれます。
さて、ここで、次のスクリプトを見てみましょう。ボスのHPを表示するSliderにくっついているスクリプトです。
ゲームシーン上のHPバー(Slider)
インスペクターウィンドウにて、HPCSがSliderのコンポーネントとしてアタッチされている様子
HPCS
ここで、16行目の"anubis_head"と書かれている部分のuを抜いて、"anbis_head"としてしまいましょう。スペルミスを起こしているため、コンソールウィンドウにエラーとして出るはずです。ところが、コンソール画面にはエラーは一つも出てきていません。
あれ?と思ってゲームを実行すると、
NullReferenceException
しかも、エラー表示をよく見てください。このコンソール画面によると、スクリプトのエラー箇所は、17行目と24行目にあるそうです。しかし、思い出してください。ブログ主は「16行目の」anubis_headのuを抜いた、つまり間違っている箇所は16行目にあるという事になります。
それなのに17行目と24行目にあると表示される。これは初学者にとっては大問題です。
また、このエラーはGameObject型の変数"Anubis"に値が何も入っていないことが原因なのですが、このエラーには"Anubis"という文字が入っていません。ただ、「NullReferenceException」と表示されるだけです。つまり、具体的にどのようなミスなのかが示されていない訳で、これは初学者にとって、非常に不親切です。
NullReferenceExpectionとは、直訳すると「空っぽ参照例外」となり、つまり参照先のスペルがミスっていると空っぽ判定を受けてゲームが動かなくなるのですが、このエラーは今まで見てきた通り、超不親切です。
一般的なエラーでは、
- エラーがスクリプト反映時にすぐに出る。
- 間違った箇所を指定してくれる
- どのように間違えたのか教えてくれる。
といった仕様になっているのですが、NullRefereceExceptionでは、
- エラーが最初は表示されないのに、実行時にポンッと出てくる。
- 間違った箇所が初学者では探しにくい。
- NullReferenceExpectionとしか言ってくれない。
と言った仕様となっており、超が付く不親切です。
Unity初学者には、スペルミスや写し間違いが付き物です。そんな中、数多のエラーを乗り越えて、「やっとゲームを実行できる!」となった時に実行後急に
"NullReferenceException"
という訳の分からんエラーが出てきたら、はっきり言って心おれます(笑)
ブログ主のこのツイートが、NullReferenceExceptionです。絶賛心折れてますね。
動かした瞬間にエラーが605個出たんだけど、ひどすぎ。
— こう(null) (@hirumeshikuuya) 2021年11月4日
Unityでこれが出てきたら、大体はスペルミスなので、頑張って探してみてくださいね~。
終わりに
さて、今まで初学者がUnityで躓きやすい5つの事(というよりブログ主が躓いた5つの事)を見てきた訳なのですが、何がともあれUnityは素晴らしいゲームエンジンです。
ところで、このUnity、先ほど紹介した通り、AmongUsという神ゲーにも使われているのですが、皆さんアモアスはやったことありますか?
人狼ゲームとアクションゲームを合わせたような画期的なゲームなのですが、あまりゲームをやらないブログ主が珍しくはまったゲームです。月に何回か深夜にやっているのですが、まじで奥が深くて神ゲーです。プレイしたことが無い人でも、一度くらいは動画を見たことがある人もいるのではないでしょうか?これを一度もやったことないというのは、人生を半分くらい損してます。
つまり結論、皆アモアスをやりましょう!
以上で2021/12/09のUECAdventClenderの記事を終わりにしたいと思います。
今日が終わる7分前に記事書き終えるって何?
12/10はユーキさんの記事です。是非ご覧ください。