DDLCのサヨリに関するそこまで重要ではないネタバレを含む考察

 このブログには子供に相応しくない内容、または刺激の強い表現が含まれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 この記事は、UEC Advent Calendar 2022 - Adventar 9日目の記事です。

 

adventar.org

 

 前日の記事は、型推栄 (@_jj1lis_uec) / Twitterさんの「GitHub - jj1lis/UEC_adCal2002: 一階命題論理を統語論と意味論から爆速で組み立てます。」です。

 

github.com

 

 Ⅰ類の皆さんは連日こういうことをやっているのでしょうか。Ⅲ類の僕には難しすぎて分かりません。

 

 こんにちは、こう(昼飯)です。毎週の理工学基礎実験に心と時間と体力をすりつぶされて、ある意味で電通大生らしい生活を送っております。

 

 UECアドカレには去年に続き2回目の参加です。これは去年のアドカレ。

adventar.org

 

 の、僕の記事。

 

hirumeshikuuya.hatenablog.com

 

こっちは今年のver.2。こっちも面白いよ

 

adventar.org

 はじめに

 突然ですが、皆さんは普段どのようなゲームを遊ばれるでしょうか。RPGFPS、ホラーゲームなど、ゲームには様々なジャンルがあります。電通大界隈では、最近ではポケットモンスタースプラトゥーン、VALORANT等が流行っているでしょうか。

 

 その中で、今回僕が紹介したいゲームは「ドキドキ文芸部(原題:Doki Doki Literature Club!)」です。端的に言うと僕が今年一番感動したゲームです(普段あんまりゲームやんないけど)。アドベントカレンダーは12月という一年を総括する時期に開かれるイベントであるので、1年を振り返るこの時期に今年一番感動したゲームについて紹介ししたい、そしてなにより自分の好きなゲームについての、クソデカお気持ち文章を書きたいという理由で、この題材を選ばせていただきました。

 

 なお、このゲームについて何か知っている人も知らない人も、ネタバレについての問題に関しては、とても気になっていると思われます。そこで、このブログのタイトルを見て欲しいのですが、このブログのタイトルを、「DDLCのサヨリに関するそこまで重要ではないネタバレを含む考察」にしました。ようするにこのゲームの核心に迫る部分、物語のメインストリームとなっている部分については、全く言及しない形で記事を書いています。それでもネタバレを食らいたくないという方は、ブラウザバック推奨です(アドカレでそんな記事書くな)

 

 また、タイトルを見て貰えばわかる通り、本記事はこのゲームのメインヒロインの1人であるサヨリについての考察記事になっております。理由は序盤に多く登場するからなのですが、そんなことは抜きに僕がくっそ好きなキャラだからです

 

 また、ゲームとは別に、この記事は主に精神科医の名越康文先生のyoutubeチャンネルの実況を基に作成しているのですが、こちらも面白いので是非見てみてください。

 

www.youtube.com

 

 ドキドキ文芸部(Doki Doki Literature Club!)とは

 ドキドキ文芸部は、2017頃にTeam Salvatoによってリリースされた、詩の執筆をするという仕立ての元でで、詩を構成する単語によって条件が分岐していくという、画期的なシステムを備えたビジュアルノベルゲームです。マシュー・クランプ文化イノベーション賞を受賞し、1000万DLを突破している、大ヒット作品です。正直、ノベルゲームかと言われると、若干ずれているような気もしますが、ノベルゲームのような物ギャルゲーみたいな奴、程度に思って頂ければよろしいと思います。

 

store.steampowered.com

 

 本作品には、一般的なギャルゲーよろしく美少女が登場するのですが、その物語を構成する4人のメインヒロインを紹介したいと思います。名前は、サヨリナツキユリモニカです。

 1.サヨリ

 主人公の幼馴染で、文芸部の副部長。属性はいわゆる「バカの子」で、好きな詩のタイプは、感情豊かな詩。

 2.ナツキ

 カップケーキを作るのが得意な文芸部の最年少。属性は「ツンデレ」で、好きな詩は「読みやすくて、ガツンとくる」タイプの詩。

 

 3.ユリ

  生粋の文学少女かつコミュ障。属性は「クールビューティー」で、好きな詩は表現技法を凝った象徴的な詩。

 

 4.モニカ

 みんなからの信頼が厚い文芸部の部長。属性は「高嶺の花」で、好きな詩は構成力があって哲学的な詩。

 

 以上4名と主人公の絡みによって、本ゲームは進んでいきます。

 

本稿で論じる部分のストーリーのあらすじ 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以下、ネタバレ注意

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 既にストーリーを知っている方は読み飛ばして頂いて結構である。本稿で扱う部分は、ゲームの最初から、主人公がサヨリに告白するシーンだだ。まだ知らない方は、以下の引用文風のあらすじを読んでいただきたい。

 主人公は部活に何も入っていない男の子。高校2年生の始業式、主人公は最近寝起きが悪い幼馴染の女の子、サヨリに文芸部に誘われます。その文芸部にはサヨリを含めた4人の美少女。主人公は彼女たちと楽しい部活生活を送るために、文芸部に入る事を決心します。

 詩作等の部活動、そして文化祭の準備を通して、主人公は文芸部の女の子と徐々に仲良くなって行きます。しかし、主人公が自分以外と仲良くなろうとして自分からだんだん離れていっている事を見抜いたサヨリは、ある日体調を崩しているかのようにして、部活動中に帰ってしまいます。その事を案じて、後日サヨリの部屋へ出向いた主人公に対して、サヨリは自分が重いうつであった事や、自分の心の中の矛盾について、主人公に伝えます。その後、主人公はサヨリと自分との今後の関係性について、とある告白をするのでした。

 

このブログが本当にやりたい事

 このブログはDDLCに関する諸々の伏線を紐解く事に関しては、全く興味を示していない。抜粋しているストーリーの部分で、その事はお判りいただけていると思う。本ブログの目的は、サヨリがうつを患っている事を軸に、サヨリがただのうつではない事、サヨリが抱えている心の闇の深さ、過剰適応を筆頭とするサヨリを取り巻く状況の悲壮さ、サヨリに関する力動論的な視点から、サヨリの過去等を明らかにすると共に、それを通して、サヨリがいかにキャラとしていびつであるかと言う事、サヨリの精神の異常性、サヨリがどれだけ可愛いかを読者に紹介する事である。まずはうつ病について語る前に、サヨリうつ病とはあまり関係ない周辺的状況について語りたい。テーマは、「サヨリは友達がいない」「サヨリはクズである」「サヨリは深刻な矛盾を抱えている」である。

 

サヨリは多分友達がいない

 さて、いきなりずいぶんな言い分であるが、僕はサヨリは文芸部以外にはおそらく友達がいないと考えている。理由は、サヨリの自室にある。主人公によれば、サヨリは小さいころから部屋が変わっていないという。それは思春期の高校生としてはある種異常で、普通は周りと共有する趣味に沿って、部屋のオブジェクトも変わっているはずである。それが無いという事は、サヨリには文芸部以外に会話をする友達がいないという事である。高1、高2と、主人公とはクラスが違ったようであるし、その事を主人公が知らなくても不思議では無い。というより、主人公も含めて、モニカ以外の文芸部員は大体友達がいない(主人公はストーリーにおける初日、放課後一人で取り残されていた)。そういったところも、つまり文芸部が人間関係のゴミだめのようになっている点も、僕が文芸部が好きな所以である。

 

サヨリはクズである

 サヨリはクズである。具体的に言うと、周りの人間を自分が悪者にならないように操ろうとする癖がある。分かりやすいところで言うと、例えば主人公を文芸部の新入部員として紹介しようとした。また、ユリが主人公に本をプレゼントした時には、「ユリちゃんと主人公はステキな友達になれるよ!」と言う風に、ユリと主人公が恋愛的な関係に発展しないように先制攻撃したりしている。また、主人公が文化祭の前日に他の部員と仲良くなろうとしていた所では、サヨリはその二人の仲に割って出るような行動をした(しかもその時に言ったセリフが、「ただあいさつしに来ただけだから」である。そんなわけがなかろう)。このように、サヨリには、無意識的か意識的かの内に計画を練って、自分の都合のいいように周りを操ろうとする癖があるが、ある意味で自分もその策略に巻こまれて、痛い目にあったりしている(主人公を文芸部に連れてきたことが、うつの悪化につながった等)。

 

サヨリは深刻な矛盾を抱えている

 サヨリには、「他人を幸せにしたい」という願望がある。一方で、「主人公君を自分の物にしたい」という思いも持っている。本ゲームの抜擢部分においては、この2つの願いの間で揺れ動くのが、サヨリの主な筋書なのだが、これについては「メランコリー親和型」や「過剰適応」等のキーワードを用いて、適宜論じていく。では、サヨリのうつについて論じよう。

 

サヨリの"うつ病"を診断する

 前述の通り、サヨリは自分がうつ病であることをカミングアウトした訳だが、これがどうも怪しい。サヨリが精神科で診断をちゃんと受けたのか、それとも自己診断をしたのか、また、親はこの事をどこまで知っていて、サヨリと親はどのように治療に臨んでるかなどの情報が全く無い(そもそもサヨリの親についての描写がゲーム上に無い)。もちろんサヨリが自己診断でうつ病だと言った場合、実際には別の病気である可能性も十分にある。ここでは、ゲーム上に出たサヨリのうつ症状の描写や、周辺情報から、サヨリのうつの種類、うつの度合いを確定させたい。

 

サヨリは精神科にちゃんと行っているか

 近年は勝手に自己診断してうつだと言い張っている人も多いだろうし、うつに関しての本筋の前置きとして、このことについて考えておきたい。結論としては、サヨリはちゃんと病院に受診していると考えた。理由は、サヨリが文芸部の設立に携わった点にある。果たして、うつ病患者が新しい事を始めることが出来るだろうか。つまり何が言いたいのかと言うと、サヨリはこの時、精神科による治療によって、うつが回復しつつあったのではないか。精神科に通院する事によって、文芸部設立の手伝いをすることが出来たと考えたのである。これまでは部活に入っていなかったようだし、明らかにこのタイミングで精神が回復している。

 

うつ病の診断基準

 もちろん僕は臨床家でも無ければ心理学者でもなく、ただの理系大学のB2である。そのため、僕がするうつ病の考察には全く信憑性がないし、真に受けてはいけない。こじらせオタクのコンテンツ語りの一環として楽しんで欲しい。

 

 ここで用いる診断基準としては、DSM‐Ⅳを用いる。理由は、DSMが国際的な診断基準かつ一般的に使われている基準だからである。ICDもDSMとほぼ考え方が同じだし(つまり特定の症状の個数と持続年月から操作的に診断する診断基準であるという事)、伝統的診断もその症例がほぼDSMに含まれているからである。なお、なぜⅤが出ているのにⅣを使うのかと言うと、僕が読んだ本が古くてⅣについてしか書かれていなかったからである。ご容赦願いたい。

 

 DSM‐Ⅳは「大うつ性エピソード」の程度によってまずうつ病(うつ病性障害)かどうかを判断し、その後にその他の可能性(気分変調性障害うつ病性障害抑うつを伴う適応障害、健康的な範囲の抑うつ)を考える物である。

 

 DSM-Ⅳの大うつ性エピソードは以下の通りである。

  1. 抑うつ気分
  2. 興味・喜びの減衰
  3. 食欲低下・著しい体重減少
  4. 不眠(過眠)
  5. 焦燥・制止(動きに落ち着きが無い・のろい)
  6. 連日の易疲労性・気力の減退
  7. 不適切な無価値観・罪責感
  8. 思考力・集中力の減退・決断の困難さ
  9. 希死念慮

 この内、1,2どちらかを含めた5つが2週間以上続いていると、大うつ病性障害となる。また、大うつ病性障害程では無いとはいえ、一日の大半がうつ病的な気分かつその他うつ病的な症状が2個以上あり、それらが2年間以上続いていると気分変調性障害となる(つまり症状が軽くてもそれが長い間続いちゃっていると病気と言わざる負えないよね、ということである。それとどちらも2で分かりにくいのだが、大うつ病性障害が2週間、気分変調障害が2年間である)。そして、大うつ性エピソードの1と2を含む2個以上が2週間続いていると小うつ病性障害となる。その他に、明確なストレス因があるストレス障害があり、小うつや気分変調性障害よりも軽くなると健康的な範囲と診断される。

 

 以上ように、DSM‐Ⅳは類型診断であり、その上原因には全く注意を払っていない。そのため、DSM‐Ⅳを用いる事によって、サヨリうつ病の経緯を深く知ることが出来る訳では無い。

 

サヨリのうつ症状の候補

 サヨリうつ病の症状の候補として、ゲーム中に描写されている物を上げていきたい。

1.過眠

 サヨリに関する伏線として、ストーリー中の序盤も序盤から描写されていた症状である。サヨリは朝起きれない事が原因で、よく遅刻をしていた。

2.抑うつ

 当然これも含めるべきである。サヨリは笑顔の裏に常に抑うつ的な物を抱えていたかのような描写がされている。

3.無価値観・罪悪感

 サヨリは自分を他人に気に掛けられる価値もない存在として自分をとらえていて(無価値観)、他人を幸せにするという彼女の価値観を成し遂げられない時や他者に気遣われてしまった時に罪悪感を感じていた。

 

サヨリの除外診断

 うつ病の診断には、まず除外診断が大事である。そのため、サヨリに当てはまりそうなうつ病以外の病気の可能性について考えたい。

 

 1.適応障害

 うつ病と症状が似通っている病気であるが、明確なストレス因がサヨリの場合示されていないので、おそらく適応障害では無いだろう。

 

 2.双極性障害

 サヨリの場合、元気な時はうつ症状を全く見せていなかったので、躁とうつを繰り返す双極性障害を疑われそうだが、元気とはいえ躁的エピソードが無いので、おそらく違う。それでもサヨリが主人公にうつ病をカミングアウトする直前までうつ症状を見せなかったのには違和感があるが、僕はこれは"過剰適応"から来る現象だと思う。それについては後で論じる。

 

 3.起立性調節障害

 自立神経系の異常により、立ち上がったときに血圧が低下したり、心拍数が上がり過ぎたりする病気で、思春期に多い。これが原因で朝起きれなくなったりする(逆に昼以降は活動できたりする)。サヨリの場合、布団から抜け出ることが出来ず、学校の始業に間に合わなそうになるというのは、まんまこの疾患に当てはまるようにも思えるが、本人の他者とのかかわりや自己肯定感に関する問題が全く説明できない。そのため、否定はできないが、他の要因もありと認めなければならないだろう。

 

サヨリDSM-Ⅳに当てはめてみる

 いよいよここでサヨリDSM-Ⅳの基準と照らし合わせてみる。結論から言うとサヨリは小うつ病性障害と診断される。各項目とサヨリの状態を比較していく。

  1. 抑うつ気分 ←隠してはいたが、2週間以上あるとみてめてよいだろう〇
  2. 興味・喜びの減衰 ←サヨリが何に興味を示していたか分からないが、あると言えなくもない△
  3. 食欲低下・著しい体重減少 ←無い×
  4. 不眠(過眠) ←過眠もあると言えばあるが、それは抑うつ気分から来ているということが、サヨリ本人から言及されている。ここでは×
  5. 焦燥・制止(動きに落ち着きが無い・のろい) ←無い×
  6. 連日の易疲労性・気力の減退 ←あると言えばなくも無いが、あまり見受けられない×
  7. 不適切な無価値観・罪責感 ←滅茶苦茶ある。〇
  8. 思考力・集中力の減退・決断の困難さ ←寧ろ思考はちゃんと回っているのが恐ろしい×
  9. 希死念慮 ←あるかどうかわからないが、言及はされていない△

結果は、〇2つ、△2つ、×5つである。以上を考えると、大うつ病性障害は絶対ない、正直言って小うつすら怪しいくらいである。僕が出した結論は、サヨリは"うつ病性障害と言えなくもない鬱状態"である。

 

 サヨリの鬱の原因

 さて、サヨリが小うつ病性障害であったという事は、つまり全然重くは無いが、かといって間違いなくうつ病と言える(ほかの疾患は当てはまらない)うつ病といことである。では、サヨリうつ病に導いた要因として何が挙げられるだろう。実は、サヨリうつ病になった原因については、ゲーム中に全くと言っていいほど描写が無いのだが、サヨリと主人公の周辺状況から、なんとか割り出してみたい。

 

 サヨリにおける”helplessness性”について

 まず、どんな時に人がうつ病になりやすいかについて考えたい。人がうつ病になる要因としては、”helplessness(途方に暮れた状態)”が挙げられる。helplessnessとは、ビブリングが精神分析の観点からうつ病の状況因について論じる時に用いた彼の理論の中核をなす概念である。

 彼によれば、うつ病者は、元々「価値ある存在である」「他者より勝っていなけらばならない」「自分は善人でなければならない」等の、自己の在り方に関する、熱烈な願望を抱えていたとされる。この時、これらの目標を自分はどうやっても達成できない、成し遂げる事が出来ないと思ったときに、途方に暮れて、"helplessness"に陥るのである。この、"helplessness"がうつ病の直接的な原因とされる。

 では、サヨリにおけるhelplessnessにつながる願望と何であろうか。それは、「自分が他者を幸せにしなければならない」という理想的な願望である。ストーリー上では、これが達成されない事に対して、サヨリは絶望を抱いていた。しかし、サヨリがうつ症状(朝起きれない)を示し始めたのは、1年ほど前であるので、時系列が合わない。もう少し詳しく見て行こう。

 

 養育環境の力動論

 続いて、サヨリがどのような家庭環境で育って来たかを考えたい。まず、サヨリの親は、ストーリー上には全く描かれていない。そこから逆に考えれれるのは、サヨリの親はサヨリに対してあまり干渉しない親なのだろうという事である。例えば、主人公がサヨリの家に来るときも、一直線でサヨリの部屋まで行っており、サヨリの親と挨拶のような物を交わした雰囲気が全くない。また、サヨリが毎朝遅刻しているのも、恐らく放置している。

 かといって、サヨリは親に放っておかれてるわけでもなさそうである。サヨリがもし精神科に行っているとしたら、高校生が一人で行くわけが無いので、恐らく親と一緒に行っているのであろう。ここから浮かび上がるのがサヨリの親像としては、サヨリにあまり干渉しないが、親としての役割は最低限果たしているような親というのが適切であろう。

 ここで、一般的にうつ病になりやすい養育環境について論じておきたい。うつ病者の養育環境については、テレンバッハやケンドラー等によって様々に議論されているが、ここではアブラハムやアリエティによる力動論的な観点から考えていきたい。

 彼らによると、うつ病患者における養育環境は次の順番で起こるという。

  1. うつ病者は乳児期には、親によって喜んで世話され、色々な物を与えられる。
  2. しかし、親の世話は次第に熱心さを失い、子供は心的外傷を負う
  3. その後、子供は自分が親の期待を達成することによって、親の愛を得ようとする
  4. この性格のまま成長することによって、自分がある役割をこなそうとするような性格になる。
  5. 結果、この子は、役割に過度に同一化するような、理想を追い求めるような人間として出来上がる。

 勘のいい人は気づいただろうが、この「役割に過度に同一化するような、理想を追い求めるような」状態と言うのは、"helplessness"の議論につながる。

 つまり何が言いたいのかと言うと、サヨリの「私は他者を幸せにしなければならない」というある種フィクション的な願望を持つに至った経緯としては、サヨリの親が以上の力動論で論じた養育環境をサヨリに与えた事があげられると言いたいのである。

 この事は、サヨリのうつの原因がhelplessnessから来ているわけだは無さそうな点と矛盾しているようにも思えるが(サヨリが役割同一型の願望を持っている事とは矛盾しない)、僕がサヨリの親が「アリエティの力動論的親」であったと考える理由は、もう一つある。それは、本編における、サヨリと主人公の関係である。

 

 主人公はサヨリの最も恐れていることを時間をかけて再現した

 サヨリが本編中で語った主人公との思い出としては、サヨリが主人公に小さいころ様々な形で助けられた事等があげられる。また、ストーリーの前提として、小さい頃はよくお互いの家にいくような親密な関係であった事が示されている。

 しかし、主人公は高校入学あたりから、サヨリと登校しなくなっている。このことから、主人公はサヨリに対して、アリエティが論じた、一度世話をやいてからだんだん離れているといくという、うつ病を誘発しやすい親の行動と同じような振る舞いをサヨリに対して行っていたのである。もちろん、主人公がサヨリと登校しなくなったのは、サヨリが寝坊するようになったからなので、これがうつの原因とは言えないが、サヨリのうつをより酷くしたのは間違いないであろう。というより、サヨリはことあるごとに主人公に対して自分の面倒を見るように懇願しているかような描写がある。このことから、明らかにサヨリは主人公が自分から離れていくことに対して恐れているようであり、このことが、サヨリが幼少期に親から同じ状況に置かれたという事を示唆しているように感じる。

 

 うつ病ポテンシャルの3性格

 サヨリのうつの原因について、今一決定に欠けるので、最後に大本命であるうつ病を誘発しやすい性格について論じていく。その性格とは、ずばり「メランコリー親和型」「ヒステリータイプ」「未熟依存型」である。

 1.メランコリー親和型

 メランコリー親和型とは、一言で言えば、周囲からの要請や願望に対して積極的に順応していく性格の事である。周囲からの要請や願望とは、つまり「自分は仕事で成果を残さなければならない」や、「自分は他人を幸せにしなけらばならない(これサヨリ)」等という物である。この性格については、もちろん"helpressness"や養育環境の力動論と関係していると考えられている。

 2.ヒステリータイプ

 ヒステリータイプは、具体性や事実性よりも印象を大事にする、ロマンチックな物や恋愛を追い求める、愛する対象を理想化しやすい等の特徴を持っている。女性に多く、情動が不安定であり、役割に依存するメランコリー親和型とは違って、特定個人に依存する。

 3.未熟依存型

 この性格の人は、他者にしがみつき、常に愛情を求めようとする。この性格はフロイト精神分析における口愛期的な問題を抱えており、幼児退行的な、ヒステリータイプより単純な(つまりただ単に未熟であるだけという)理由でうつに陥ることが多い。

 

 1番については、より大うつ病性障害になりやすく、2,3番については、うつ症状は軽度になりやすい。

 

 ヒステリータイプの力動論

 さて、サヨリはこれらの性格のどのタイプに属するだろうか。結論としては、1と3である。サヨリの、主人公とより親密になりたいという強い願望は、特定個人への恋愛的同一化と言う意味でサヨリヒステリータイプを持つ事を示唆しているかのようにも思えるが、個人的にはそれは無いと考えている。

 ヒステリータイプの要因としては、母親と女性性の幻滅であることが、力動論からあげられる。つまり、母親から愛されなかった、もしくは母親を愛せなかった事によって、母性的な愛について幻滅しているのである。これによって、ヒステリータイプの女性は(”女性”と言ってしまっているが、この性格についてはほぼ女性について論じられている上、サヨリも女性なので、このまま女性についてのみ論じていく)、逆に男性性的な物を求めるようになって行く(女性のエディプスコンプレックス)。しかし、彼女らは本当は女性性的愛を求めているのであって、男性からは真の満足を得られることが無く、転々と相手を乗り換える事が多いとされる。

 この部分がサヨリと異なっているのであるサヨリには、母親への幻滅があまり感じられ無い。まず、主人公に一図に思いを寄せている時点で、サヨリはヒステリータイプとは異なる。ヒステリータイプについての議論はこれくらいにして、メランコリー親和型と未熟依存型について論じよう。

 

 サヨリのうつはどら焼き

 サヨリメランコリー親和型であることは、誰もが同意するところであろう。サヨリは明らかに社会的・一般的役割に過剰に同一化している。また、サヨリは未熟依存型的であることも間違いが無い。サヨリは、主人公に部屋を掃除して欲しい事や朝起こしに来て欲しい事等の、ある種幼児退行的な願望を抱いている。

 さて、サヨリのうつの要因についてまとめよう。まず、サヨリがメランコリー親和及びhelplessness的要因によってうつになっているという説は、時系列的に矛盾することは、既に述べている。ところが、サヨリが「自分を犠牲にして他人を幸せにしたい」という、helplessness準備的な欲求を持っている事も確かである。そこで、サヨリにhelplessnessが2段重ねで起こったとしたらどうだろう。つまり筋書きは次の通りだ。

  1.  サヨリは養育環境の力動論的親によって、「他人を幸せにする」という願望を持った、メランコリー親和型性格になる
  2. 幼少の頃は友達もいたが、中学に上がるにつれ、趣味の停滞や、役割準拠の行動による違和感により、友達が徐々にいなくなる
  3. この「他人を幸せにしたい」という欲求はある種他人に愛されたいという欲望の裏返しであるので、徐々にうつ状態になる
  4. 主人公と同じ高校に進学。2,3の状況が深刻になり、helplessness発生本格的なうつ。朝起きれなくなる。
  5. その後、精神科に通院することによって、若干回復。文芸部に入部。
  6. 高2の新学期、主人公を文芸部に誘う。
  7. 主人公が他の部員と仲良くなっていく事、自分は実は主人公と仲良くなりたい事、他人を幸せにしたいという願望の間の矛盾により、うつが悪化。2回目のhelplessnessの危機に陥る。
  8. サヨリが主人公にうつを告白

 これが、僕が考えたサヨリにおけるhelplessnessの筋書である。また、この間に未熟依存的な、つまりただ単に主人公に甘えたいという内容のうつも含まれている。つまり、結論を言うと、サヨリのうつは次のようなどら焼き構造をもっているのである。

 

 

 補足としては、サヨリがメランコリー親和的な性格を身に着けるのには、どうにも養育環境の力動論的親を想定しないと理由が見つからない点、サヨリが他人を幸せにしようとしたのは、サヨリなりに未熟依存型的な性格を補おうとしたからかもしれない点、サヨリが文芸部に参加した理由としては、新たに友達を探す場所を求めていた事が挙げられるかもしれない点、メランコリー親和的な性格の割にうつが軽度なので、もしかしたら一回目のhelplessnessはだいぶ軽度だったかもしれない点があげられる。

 

 うつ病性格の一般論

 すでに何度も論じた、メランコリー親和型ヒステリータイプ未熟依存型に、現代型うつ(周囲の環境に合わせて何となくうつになるタイプのうつ)を合わせた4つは、「エネルギーの高さ」と、「依存する枠組み」によって座標上に図示することが可能である。既にメランコリー親和型、ヒステリータイプの2つが、役割に依存↔特定個人に依存の対立になっている事は述べた。このような図式を4つ全てに用いると、次のように位置づけできる。

 

 

 ただ、サヨリの場合未熟依存的な要素とメランコリー親和的な要素の2つを持ち合わせており、その未熟依存的な部分を、メランコリー親和的な行動によって、なんとか適応させようとしているような節がある。この2段構造が、サヨリのいびつ性の代表例と言える。

 

 ああ 取り繕っていたいな

 さて、うつ病についての話題はこれくらいにして、続いて過剰適応についての話題に移りたいと思う。過剰適応とは、精神科医名越康文氏が自身の臨床経験を基に作り上げた概念で、ある環境や他者に自身の行動や考え方を度が超えるほど適応させている状態を指す。一般的には過剰適応は他者、例えば周りの友達のノリに無理をして合わせている状態等を指すが、サヨリの場合、それも含めた3つのものに過剰適応していると考えられる。

 

 サヨリにおける過剰適応

 サヨリが陥っている3つの過剰適応は、「他人を幸せにするという役割への過剰適応」「他者に好かれるような自分になるという過剰適応」「自分は無理をしていないという過剰適応」である。

 1.他人を幸せにするという役割への過剰適応

 もう説明はいらないであろう。

 2.他者に好かれるような自分になるという過剰適応

 サヨリは事あるごとに「えへへ~」等と言って、馬鹿の子的なキャラを演じていた。正直言ってどこまでが過剰適応でどこまでが素なのかが分からない(そこが過剰適応の恐ろしいところなのだが)が、サヨリがうつをカミングアウトする時、自分が自分の感情を押し殺していたというような内容の事を言っていたので、ある程度演技をしていたのだろう。また、小学生の時から部屋の時間が止まったままであるかのようなサヨリが、他者と関わる時は、ある程度の適応を強いられるのは当たり前ともいえるだろう。

 3.自分は無理をしていないという過剰適応

 つまり自分は過剰適応なんかしてないよという過剰適応である。サヨリの「他人を幸せにするという役割への過剰適応」には、自分が他者の為に頑張っている事を悟られないようにしたいという物も含まれている。つまり、サヨリは他者に気を使われたくないのだが、サヨリが自分の弱みを見せると、他者が自分に気を使ってしまうと思っているのである。この、「他人は自分に絶対注意を払ってはいけないが、自分は他人の事を常に気にかけて幸せにしなけらばならない」という、悲壮的なまでにメルヘンチックなサヨリの幸せの定義は、自己肯定感の低さから来ているのか、はたまた養育環境の力動論的親の影響からなのか、はたまた基底欠損からきているのか分からないが、いずれにせよこれがサヨリの自分の弱いところを見せないという過剰適応に繋がっているのである。

 

過剰適応の2段底

 過剰適応には2段底と呼ばれる現象が起きる。それは、自分の過剰適応を取り払おうとしても、結局過剰適応に陥ってしまう症状の事である。過剰適応とは、つまり本来の人格の上に別の人格をかぶせているかのような状態の事だが、過剰適応が進むと、無意識レベルで過剰適応してしまうので、ついに本来の人格が擦り切れるように消えてしまうのである。このとき、表の人格を取り外そうとする、つまり自己開示をしようとすると、本来の人格すら過剰適応してしまっているので、その自己開示ですら過剰適応的な薄っぺらい物になってしまうのである。あるいは、自己開示をしようとしている時点で、ある意味強い意図をもって行っているはずであり、その意図が過剰適応の人の場合当然過剰適応になってしまうため、自己開示ですらなにか意図や計画を持った適応的なものになってしまうのである。これが、過剰適応の2段底である。

 サヨリの場合、主人公にうつを告白する時に、「えへへ~」と言っており、つまり自己開示の時ですらうすっぺらい外側の性格でしか語ることができないという、過剰適応の2段底に陥っていると言える。

 

床にぜんぶ、散らばるシアワセ、シアワセ、シアワセ

 サヨリの詩を、過剰適応を用いて解釈していきたい。もしかしたら著作権に抵触する感も知れないので、一部抜粋で解説する。

 ビン / サヨリ

ともだちが何かを感じて仕方がないとき、
こういうときにビンが役に立つのよ。

 つまり、他者が何か不幸や困難に直面している時に、その人を幸せにしようとしているのである。

だけど渡すたびに、足もとのタイルで粉々になっていく。
床にぜんぶ、散らばるシアワセ、シアワセ、シアワセ。

 これは、過剰適応の不吉な将来を示している。つまり、自分が他人の為に頑張っても、それがうまく結実せず(つまりたとえ相手が"シアワセになっても"、自分はそれを感じ取ることが出来ない)、途方に暮れているのである。

ただ聞こえるのは残響、残響、残響、残響、残響
わたしの頭の中で。

 過剰適応により、感情を実感をもって感じることが出来ず、空っぽのままなのである。

 

 きゅうくらりん 

 きゅうくらりん / いよわ feat.可不(Kyu-kurarin / Iyowa feat.Kafu) - YouTubeが、DDLCのサヨリをモチーフにしている事は、youtubeのコメント欄等でも言及されているので、周知の事実であろう。そこで、サヨリの考察の総括のような物を、きゅうくらりんの歌詞に沿って、行っていきたい。 

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 もちろん全文引用するわけにはいかないので、またもや一部抜粋方式になる。

きっときっと鏡越し

 つまり、主人公に対して面と向かって話せていないのである。もちろん恥ずかしいから照れて顔が見れない、等という物では無く、過剰適応により、どこか偽りの自分で主人公に接しているという事である。サヨリが、どこか俯瞰したような目で世界を見ているのがここから分かる。

ピンクの植木鉢の ぐちょぐちょした心のそばに
大きく育ったもの

 植木鉢(サヨリの部屋にある物)に育った健全な恋心の"そばに"、主人公を独り占めにしたい、自分の底知れない闇を主人公で埋めたいという、ある種未熟依存的な、つまり精神的に不健全で危うい願望を孕んでいるという事である。

ああ 化石になっちまうよ 

 主人公への恋心が、長年の過剰適応やうつによって埋もれていって、その原型をとどめたままカチカチに乾いてしまうという事だろう。

喜びより 安堵が先に来ちゃった

 この歌詞が示しているのは、恐らく主人公が他の女の子と仲良くなりたがっている事が明らかになったシーンについてを指している。サヨリは他者に幸せになって欲しいと考えていた訳だが、特に主人公に対して他人と関わって幸せになって欲しい願願っていた。そうすると、この状況はある種サヨリの願望が結実した訳で、本来はサヨリは喜ぶべきなのだが、サヨリは安堵してしまっている。安堵とは役割を終えた事への安堵であり、それは結論が出たという意味で、裏返せば絶望である。また、サヨリは主人公が他の女の子と仲良くしたがっている事を喜べなかった事について、自分はなんて駄目な人間なんだと罪悪感を抱いており、ここもサヨリの悲しいところである。

底なしの孤独をどうしよう

 基底欠損である。基底欠損とは基底的信頼感の欠如であり、マイケル・バリンドの言う一次愛の欠落である。つまり、母子関係において愛情を受けられなかったために発生する心的構造の欠損であり、未熟依存的性格とも関連してくる。サヨリの精神の最後にはこれがあり、基底欠損の影響で、サヨリは主人公に自分の穴を埋めて貰おうとする。もちろんストーリー上ではこの基底欠損から来る願望は、メランコリー親和的性格によってずっと抑圧されており、八方塞がりな状態である。

 

終わりに

 本稿ではサヨリのうつの力動論的な考察にその大部分を割いたが、さよりの本質はただのうつではなく過剰適応や、メランコリー親和的性格そのもの、基底欠損、そしてもちろん主人公への恋心等が複雑に絡み合っている点なので、他の部分も読んでみて欲しい、です、まる。本稿を通じて、サヨリの可愛さが伝わったら嬉しいです。

 

 明日(12/10)は本棚さんによる、「夜のモナコ調布店からモナコ川越店に歩いて開店凸した話」です。是非お楽しみください。

 

 参考文献

まわりにあわせすぎる人たち /康文, 名越, ロブ@大月 

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