2021年度ボカロ考察

この記事は、UEC 2 Advent Calendar 2023 - Adventar 9日目の記事です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 こう(昼飯)です。21年度生B3のⅢ類光工学科です。3年実験分からん分からん分からん分からん。

 

 

 

 

 

 

 

 

はじめに

 溜まっている激重感情を吐き出します。

 

 前日の記事はらぼねこさんの記事です。まだですね!僕もよくあります!待ってます!

2021年度のボカロ曲

 さて、皆さんボカロ曲はお好きでしょうか。今回2021年のボカロ曲を考察したいのですが、2021年のドベカレでやれ   2021年のボカロ曲にどんな曲があったか覚えていらっしゃいますでしょうか。

 2021年といえば、前年度の柊キライさんやkanariaさん等の活躍に引き続いて、プロセカや2020年冬から始まったボカコレ、後ぶっちゃけコロナ禍の影響でボカロ界隈が大いに盛り上がった年でした。また、7月に音楽的同位体シリーズの第一弾、「可不」がリリースされボカロ曲の幅が大きく広がった年でした。

musical-isotope.kamitsubaki.jp

 考察する2021年度のボカロ曲の候補を得るにあたって(ほぼほぼやりたいものは決まっていましたが)、2021年1月1日から2021年12月31日の間にニコニコ動画に投稿された音楽・サウンドのランキングを参考にしました。

2021年ボカロ曲再生数ランキングTop10

1.フォニイ - kafu [オリジナル] - ニコニコ動画

2.神っぽいな / 初音ミク - ニコニコ動画

3.きゅうくらりん / いよわ feat.可不 - ニコニコ動画

4.ロウワー / Flower - ニコニコ動画

5.DECO*27 - ヴァンパイア feat. 初音ミク - ニコニコ動画

6.マーシャル・マキシマイザー / 柊マグネタイト feat.可不 - ニコニコ動画

7.【GUMI】エンヴィーベイビー【Kanaria】 - ニコニコ動画

8.【可不】キュートなカノジョ【syudou】 - ニコニコ動画

9.エゴロック(long ver.) / すりぃ feat.鏡音レン - ニコニコ動画

10.『トンデモワンダーズ』feat.初音ミク(+KAITO) / sasakure.‌UK - ニコニコ動画

kiite.jp

 その中で僕が考察するのは、「神っぽいな」と「マーシャル・マキシマイザー」と「フォニイ」です。本当はあと「ロウワー」と「エゴロック」も考察したかったのですが、無理そうなのでtwitterでアンケートを募って3曲に絞りました。

 また、2021年公開の超ヒット曲、「きゅうくらりん」の考察は去年のドベカレで軽く触れてますので、この記事を読み終わって余力があった場合のみご覧ください。

 あと、出来上がった考察が結構猟奇的だったので、もし途中で気分が悪くなった方がいらっしゃいましたら、すぎに読むのをやめて休んでください。

hirumeshikuuya.hatenablog.com

 

 

神っぽいな/ピノキオピー

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「無為に生き延びるのは難しい」

 この曲の登場人物は、神っぽいな(ピノキオピーさん)、神っぽいなの信者の3者である。神っぽいなの考察というと、「創作物をなんとなくの雰囲気だけで享受して消費している現代人への皮肉」とするのが巷で言われている定説であるが、もちろんその面も確実にあるが、僕の考えは実を言うとそうではない

 この曲は「他作品コピーなんとなく良いとされている創作上での妥当なメゾット多分に取り入れるしかなくて自分が本当にやりたいやり方で創作を行えないという、創作者の苦悩」について歌った曲である。

 この主張はある程度ぶっ飛んでいるが、この考えはことごとく歌詞に符合する

 楽曲中の歌詞のどの部分に楽曲のテーマが色濃く表れるかという問題については、もちろん楽曲が進んでいく順番通りな訳がないので、説明がしやすい順に説明していく

Bメロの考察

 まず、Bメロの考察に入っていく。まず、「メタ思考」する本質は勿論悪意ではない。では何なのかというと、ニヒリズムである。ニーチェだし。それより、メタ思考の部分が大事だと思っていて、つまりピノキオピーさんがメタ思考をしているのであり、自分が当事者となっているものに対して、一つ上の目線から何かを語っていると自己開示しているのである。実感としてとらえられない外部の何かに対して外から分析するのは、メタ思考ではなくただの分析である(外部なので絶対的にメタなのでわざわざメタ思考だとは言わない)。

 「人を小馬鹿にしたような作為」についても、勿論馬鹿にしている訳ではなく、メタ思考して本来は考えないことや、考えたくなくて押さえつけているものをあえて指摘するというのは、人を小馬鹿にしているように見えてしまう面もあるというだけである。

 さて、この曲が「他作品のコピーやなんとなく良いとされている創作上での妥当なメゾットを多分に取り入れるしかなくて、自分が本当にやりたいやり方で創作を行えないという、創作者の苦悩」だとする最大の根拠が次の歌詞である。つまり、自分のやりたいように創作をしていてはいずれうまく行かなくなるので、他者の優れている点や、既にある程度のクオリティを保てる物として妥当とされているメゾッド、今流行の傾向でやれば確実に一定数の支持を得られるであろう工夫等を取り入れてなんとか生き延びようとしているのである。これは作品を受け取る側の解像感を皮肉る解釈では、うまく意味が取れない歌詞であり、同時に創作者というもの(ピノキオピーさんと言っていいかもしれない)の苦悩試行錯誤感を感じ取れる一節である。 

 次の一節の「権力」とはつまり『Fly with me/millennium parade』の「Goddamn you monopoly」である。 つまり、自分だけの考えやこだわりで一定のクオリティを担保するのは非常に難しく、視聴者のマジョリティ層に受ける作品を作る方が勝ち残りやすく、その強大な逆らい難い流れがここで歌われている界隈で支配的になっているのである(多分どこもだいたいそう)。そしてそれによって、自分のやりたいようにやって大多数に受けいれられるというある種の理想揺らいでいるのである

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 ここがうまく意味がとらえきれてなくて、つまり神っぽいなを真似している訳であり、寧ろ肯定しているはずである。今のところは、前述の通りのスタンス(自身の能力だけで創作を行う)のではなく、神っぽいなのスタンス(作品のわりと根幹まで他人の作品を取り入れたり世の中の流れに作風を傾ける)で神の作品を超えようとしているのであり、その点が「神を否定している」という部分にかかってくるのだと考えている。

 そのスタンスでクリエイター達創作活動を行うと、その中で成功する者が何人も現れていくが、彼らはある意味他人の持ち物で成功したのであり、その結果をあまりに自分のおかげだと思いすぎると自惚れている小物のようになってしまう恐れがあると言っているのである。

 この曲が若干棘が鋭いのは、ある種ピノキオピーさん自身がこのテーマから無関係でいられない存在であり(といより、この曲におけるピノキオピーさんの関心はピノキオピーさん自身にしかないようにも思える)、だからこそ多少棘のある表現でも自身に刺さるので鋭すぎても多少は問題がない。つまり、この曲は視聴者や創作者を批判しているというよりはあくまでも「自戒」なのであり、その事をあなたは知っていますか?理解していますか?と問いかけているのである。

 それに対しての信者の返答が面白いのだが、神っぽいなの主張を否定するのではなく、「眠ってしまう」というである。信者はなんとなく良い作品を受け取りたいだけであり、その欲求から外れてしまうと興味が無くなってしまうのである。つまり、「創作物をなんとなくの雰囲気だけで享受して消費している現代人への皮肉」という面もこの曲にしっかり含まれているのである。ところで、この歌詞部分に入ると急にBPMが変わるが、これは曲を聴いている視聴者を飽きさせないための工夫ではないかと考えている。

 2021年頃はネット上に創作物や情報があふれ、僕たちのような情報や作品を受け取る側が、1作品あたりに割く時間が少なくなり飽きっぽくなってきていると言われていた時期である。例えば、イントロを流す時間を省略し、最初から歌詞部分を流すというトレンドが、そのことをの現れである。

 その事を踏まえ、前後の展開とともに考えると、「踊れるやつ頂戴頂戴ビーム」とは、「BPMが一定だと曲中で飽きてしまうので、曲中でBPMを変えて、僕たちを飽きさせない曲を作って欲しいという視聴者からの要望」であると考えられる。

 その後の歌詞は、創作者の苦悩を分からない視聴者の姿を描写していると考えている(勿論それを悪いと言っているのではなく、ピノキオピーさん自身もそれを批判している訳では絶対無い)。

 

Aメロの考察

 Aメロを考察する。「もういいぜ」から「興奮してきたなぁ」の部分は、パターン化されて似たり寄ったりになっている作品を連続して享受することによって、それらに飽きるのではなく寧ろ慣れ親しんで作品を楽しんでいる視聴者の様子を表している。「創作物をなんとなくで享受している」のであれば、例えば「かっけえぜかっけえぜそれかっけえぜかっけえぜ創作物なんとなくで享受するぽややーん」等でいいのである(よくない)。そうではなく、「もういいぜ」と、歌詞の比較的最初の方から具体的踏み込んだないようになっているのは、明らかに異常である。

 神っぽいな(ここではピノキオピーさんのことであるとしたが、任意の創作者全般だと考えても勿論かまわないし、そう考えた方がいい部分もある)の夢が「おっきい」というのは、後の歌詞で散々言及されるが、端的にいうと神っぽいなを超えようとしているのが最終的な理想であるがためである。ここでいうというのは、神っぽいな作品を作る上で参考にしている創作者もしくは何も参考しないで完全に1から創作物を作り上げている創作者である(本当にそんな人がいるかどうかはわからないが)。Aメロが終わって「Gottisttot(有名なニーチェの発言であり、神はタヒんだの意)」と流れるのは、そういうことである。

 神っぽいなは本人の身の丈に合わない非常に大それたことを言っており(相手が神なので)、景気だけよくて品性が終わってしまっているという歌詞も納得頂けるだろう。

 以上がAメロとBメロの考察である。間奏部の考察もすると、「とぅとぅるとぅとぅとぅる"風"ぽいじゃんぽいじゃん」というのは、それっぽさだけで作品を鑑賞している視聴者と他人の作品を横流しにして「ぽい」作品を作っている作者の両方を描写している(何度も言うが、批判している訳ではない)。以上の通り、一応メインのテーマは創作者側の描写側なのだが、創作者と視聴者の両方をテーマにしているのである。

サビの考察

 この曲にはサビが2つあるが(1番と2番)、同時に考察していく。ピノキオピーさんは神っぽいなの創作スタンスを卑怯だと思っているようである(本当に何度も言うが、ピノキオピーさんは批判している訳ではない。それこそ自戒やあるいは自虐か、基本はニヒリズムである)。サビまわりは曲のムードを作らために言葉を重ねている部分もあるので一気に行くが、畢竟、害虫はピノキオピーさん自身だと言っているようである。つまり、作品を作者の思った通りに受け取ってくれない視聴者や自分以外の神っぽいなではなく、わざわざこんなことを取りざたしている自分が害虫だと言っているのである。

 2番のサビに飛ぶが、「健康だと言っているのにくたばっていく」というのは、神っぽいなを批判しているのなら自身は健全なのかといわれるとそうではく、逆に自分こそ不健全(神っぽいな)であるという事を表している。また、エピゴーネンとあるが、エピゴーネンとはWikipediaによると、「文学や芸術の分野などで、優れているとされる先人のスタイル等をそのまま流用・模倣して、オリジナル性に欠けた作品を制作する者」であるという(!)。

ja.wikipedia.org

 1番と2番のサビの後半部分では、創作物や表現の形式や媒体を列挙して「アレっぽいな」とまとめている。これは創作者を妄信してなんとなくで創作物を消費して作品について何にも理解していない受け取りてについて描写しているというよりは、「神っぽいな」の「タイトル」・「」・「ストーリー」・「音楽」・「」・「メロディー」・「名言」・「意見」・「批評」・「カリスマ」・「ギャグ」・「センス」が「アレ(神。つまり、絵やストーリや音楽等がなんとなく似ているものが思い当たるという事)」っぽいなと、「比況」しているのである。

 「あこがれちゃうわ」とあるが、神っぽいなに憧れて創作しているのであり、結局(畢竟)、神っぽいなの一番の信者であったというオチである。

 以上が、サビの考察である。サビが終わった後、冒頭と同様に、「愛のネタバレ~タヒぬっぽいな」と流れるが、この部分の考察は最後に回す。「すべて」というのは今まで見てきたような創作者が抱えるジレンマのことであり、何に患ったのかというと、多少不満があっても、それで生き残れるならと、神っぽいなのスタンスで創作してしまっているのである。そして、優れている創作者の作品を真似したり今の流行りに作風を寄せたりした方が作品が評価されるなどという事をまったく理解することなく自分の好きなように創作活動をしていきたかったとして、この作品を締めるのである。

「愛のネタバレ『別れ』っぽいな 人生のネタバレ『タヒぬ』っぽいな」の部分の考察

 この曲でおそらく最も印象に残りやすい一節について考察する。個人的には、この部分は作品のテーマに全く関係無い。これは、言ってしまえば、天才の嫌味である。これまでの考察の通りに行くと、ピノキオピーさんの作品作りにおいて、他人の作品の優れている点やマジョリティにウけやすい要素を拾って創作を行うというスタンスを意識していると予想できる。それをこの『神っぽいな』という曲において体現しているとすると、この一節もなんとなく世の中受けしやすいような結果になるように作っているように考えられる。それが、「それっぽい単語集で踊っている」という部分なのだが、つまり、「僕はなんとなく流行りの要素を要れたり他人の作品の一部分をパクったりしたりして、ここまでかっこよくてキャッチーなフレーズを作れるよ!それって本当はとても難しいことなんだけどねwwwてへぺろ」と言っているのである。だから「失敬」と付け加えている。この曲ではこの一節以外はすべて曲の主張したいテーマの説明であり、この一節は謂わばテーマの実践である。この一節の内容そのものに関しては、おそらくどうでもいい(というかなんでもいい)。

 強いていうなら、「生き延びるのが難し」く、「無邪気に踊っていたかった」「人生のネタバレ」が「『タヒぬ』っぽい」のなら、色々と策を弄してもいずれは埋もれていってしまうという事を表している等と考察もできるが、正直ここまで来るとただのパズルになってしまいピノキオピーさんの考えに近づけている気がしないので、そうとってもとらなくてもどちらでもよいのである。

この曲のテーマについて

 この曲はアルバム『META』に収録しており、あくまでもメタ思考というコンセプトのもとできた曲であり、何かを批判するために書いた曲では絶対無い。他の曲を聞いても分かるように、ピノキオピーさんは皮肉やニヒリズムを描写して、あえてその中にとどまろうとするような方である(例:ピノキオピー - 匿名M feat. 初音ミク・ARuFa / Anonymous M - YouTube 初音ミクをそれだけでは意味をなさない者だとして、その上でそのことについて良い悪いを特に言及しない)。この曲も結果多数の皮肉に巻かれ、特に、この曲がyoutubeでは6000万回再生されニコニコ動画では年内に100万回再生を達成し2021年を代表する曲となり、ある種ピノキオピーさんの正しさが証明されてしまったのは、どうしようもないくらい皮肉である。

 この曲のテーマは非常にセンシティブであり正直古参ボカロpで今も一線で活躍なさっている化け物のピノキオピーさんがこんな内容の曲を書いているのは色々と察して余りある部分が多々あるが、歌詞の意味としては概ね、以上に書いた通りで大体趣旨はあっていると思う。

 

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マーシャル・マキシマイザー

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 考察というよりクソでか感情の掃き溜めになる予定である。

 この曲はデーモンコアの臨界実験及び、マキシマイザーというDTMのエフェクトについての曲である。実はこのアイディアは既に出ていて、デーモンコアに関してはyoutubeのコメント欄で散々言及されているし、DTMのマキシマイザーに関しては、こんな記事がある。

mechanical-girl.seesaa.net

 ただ、書きたい事が沢山あるので、書く。改めて、この曲は「自身のアイデンティティを模索するためにわざわざタヒと隣り合わせの環境でデーモン・コアの臨界実験をする研究者と99人の被験者」及び、「作曲におけるマキシマイザーの使用とそれを含む柊マグネタイトさん自身の作曲体験」についての曲である。前者から行く。

 

デーモン・コアの臨界実験

 デーモン・コアに関しては、ミーム化すらされていて、様々なネット上の記事で解説されているので、それを見ても構わない。これはデーモン・コア君のラインスタンプ。可愛い。

store.line.me

 概要としては、広島・長崎に続いて日本に落とされるはずだった核爆弾を、実験用に転用して、その上で危険な実験が何度も行われ、人が何人もタヒんでしまった実在したプルトニウムの未臨界塊である。

 大事なキーワードとしては以下のとおりである。

・臨界実験

デーモンコアが臨界点(核反応を起こす点)に達するか達しないかを調べる実験。

・チャレコフキ光

デーモン・コアが臨界点に達すると放つ青色の光。水晶体に直接影響して青く見えるらしいのだが、放射線なので見たらというより浴びたらタヒぬ。

 

『マーシャル・マキシマイザー』における「デーモン・コア」

 この楽曲には、実験及びデーモン・コアについての多様な描写がされているので、紹介していく。

・「臨界実験に付き合う朝

 実験に"付き合う"と言っているが、"参加する"でも"協力する"でもないのは、まとまった日数を取って、住み込みで実験に参加しているからである。"付き合う"と言われると、自分のスケジュールを削って逐一自分の予定と照らし合わせて、できるだけ時間が空いたらその空いた時間をそっくりそのまま実験に使っている感じがする。朝と言っている点からも、被験者と研究者が時間を共有している点が強調されているのが分かる。長期間通して、住み込みで実験しているのである。危なそう。

・「14

 デーモンコアは重さ6.2kgの球体であり、ポンド単位に直すと、凡そ14ポンドである。

・「蔑奴

 造語であるが、罵倒している言葉である。研究者は自分の命を野ざらしに晒すような危険な状況で研究をしているのであり、それが思慮が足りない侮蔑に値する奴だと言われてしまっているのである。

・「気が狂うふりをしている

 研究者は自身のアイデンティティというか、存在に関する答えを得たくてわざわざ危険な実験をしているのであり、つまり自身の存在を危険にさらすことによって自分とは何かというものについての答えを得ようとしているのであって、その点が「気が狂う『ふりをしている』」と言われる所以である。

・「面倒だったから切り捨てた

 99人の被験者の話になるが、MVの間奏やアウトロで最初99あったカウントがだんだん減っていっている描写がある。これを僕は99人の被験者が実験の失敗によってだんだんタヒんでいっているのだと考察していて(というより巷で考察されていて)、間奏中の会話でも被験者らしき人が人間ではないというような事が言及されているので、恐らくクローンかアンドロイドかの被験者がタヒんでいっているのだろう。

・「目に焼き付いた青の感光

 先ほど述べた、チャレコフキ光である。

・「モラトリアム的人生

 モラトリアムとは人生で自分が何を行うかを模索する時期であり、「モラトリアム的人生」となると、人生通してずっとモラトリアム期であると言っているようなものであり、これはこの研究者の実験の目的と生き方を表しているだろう。

・「失敗!

 実験は失敗。おそらく人がタヒぬのであろう。最後は研究者もタヒぬはずである。

・「なんてことだ!タヒんでしまう!

 前述の通り、タヒんしまうのである。

・「だがツマミは回る雁字搦 mate!

 面白いのが、ツマミを回しているのである。「メーターは回る」であったら、一度始めた実験を途中で止めることもできず、人がタヒんでもメーターが回るのは分かる。しかし、ここではツマミを回しているのであり、人がタヒんでいるのに実験を強行しているのは変である。そこが、「気が狂うふりをしている」と言われる所以であり、使命感に駆られて(言ってみれば神経症的に)実験にとらわれて、被験者と渾然一体となって雁字搦めになっているのである。

・「同位体

 放射性同位体である。デーモン・コアで一体どんな同位体の実験を行えるのかはわからないが、核にかかわる用語を散らばせて曲に奥行きを持たせているのである。

・「生還 実験に繰り出すアラーム

 ギリギリのところで生き残ったようである。アラームは実験開始の合図や、危険を知らせる警告音であろう。

・「旧四

 「旧」ソ連チェルノブイリ原子力発電所事故の、事故が起こった原子炉が4番炉である。

・「ロンド

分からん

・「解は求まんないよ

 臨界実験の結果が出ないというより、人生についての答えが出てないようである。間奏中の会話を見ていても色々思い悩んでいるようだし、確かに「会話も止まんないよ」。

・「最小公倍数的断頭台

 断頭台とはタヒ刑を行う場所、つまり次々に人がタヒんでいくこの実験をタヒ刑に例えているのである。最小公倍数とは、同じ条件下にある複数のものから、最小のものを選ぶ事を指す。つまり、被験者の犠牲を最小にしようとしているのであり、色々と頑張っているようである。

「なんてことだ!生きてしまう!だが恨み逆巻く惨事またGATE!」

 以上述べた通り、この研究者はタヒに近づくことによって、自身のアイデンティティや存在についての答えを得ようとしているのだが、実験が危険にならなくて生きてしまうとせっかくの実験から答えが得られず無駄になってしまう。だから、研究者になって「生きてしまう」事は芳しくないのだが、いざ惨事が起こってタヒんでしまうとなると、タヒが怖くなって生きたくなってしまい、恐らくタヒに臨んでも人生の答えは得られず、僕の命は何だったのかと、不特定の誰かを恨んでいるのである(僕たちはモラトリアム期では、主張は強い割に他責的である)。

 この、「タヒを軽視して生きてしまうのを恐れている」状態から「いざタヒに瀕していままでさんざんタヒにたがっていたのにタヒを恐れている」状態になる振れ幅が大きすぎて大変好きなのだ。

 以上がこの曲の「自身のアイデンティティを模索するためにわざわざタヒと隣り合わせの環境でデーモン・コアの臨界実験をする研究者と99人の被験者」の部分についての考察である。正直99人の被験者についてあまり触れられなかったが、99人の被験者は可不であり、後に述べる。

DAWプラグイン「マキシマイザー」について

 次に、この曲のもう一つの部分、「作曲におけるマキシマイザーの使用とそれを含む柊マグネタイトさん自身の作曲体験」について述べる。まず、この曲で主題になっているマキシマイザーについてであるが、その前に「リミッター」について述べる。「リミッター」とは、DAWでのDTMの作曲において、音割れしないように音量の最大値を決めてそれ以上に音がいかないようにするプラグインである。

 それに対して、マキシマイザーとはリミッターの性質、つまり音量をある値以下にする機能を持ちつつ、その中で音量を最大限にあげるものである。このマキシマイザーを使うと、音圧を安心して上げれるらしい。このDAWプラグインの一つである、マキシマイザーが、この曲のテーマの一つになっている。

マグネタイトさんの楽曲制作

 柊マグネタイトさんが『マーシャル・マキシマイザー』を作る時、あるいは楽曲制作をする時は、起きてから寝るまでずっと楽曲制作に臨んでいるようである。この曲には時間に関する単語が数多く登場する。例えば、「」・「」・「」・「惨事」等がある。その上で、「夜更かし」して、食事と睡眠以外は楽曲制作に打ち込んでいるのである。

 柊マグネタイトさんが「人でなし」なのかというともちろんそうではなく、「ベッド」から「起きて」から「また寝て」まで何もしていないのでは無く、ずっと楽曲制作を行っているのであり、むしろ「人でなし」の真逆である。ただ、本来は別のやるべき事をやるべきなのに「モラトリアム的」に好きな事をやっているいう文脈で、柊マグネタイトさんが「人でなし」と言っている可能性もある。

 「最大公約数的緩衝材」とは、マキシマイザーの事である。最大公約数とはある型のデータ群を基にしたある条件の計算結果の中で最大のものを選んだものである。マキシマイザーとはすべてのトラックをある音量を超えないように音圧を最大にする緩衝材である。「緩衝材」というからには、どちらかって言うとリミッターとしての要素が拾われている。

 「ロンド」とは、主題部分が挿入部分をはさんで繰り返し出現する形式であるという。もしかしたら有識者が聞いたらこの楽曲もロンド形式なのかもしれないが、僕は詳しくなさ過ぎるのでわからない。とにかく、このように音楽に関するワードが楽曲中に出ているのであり、この音楽が楽曲制作に関する楽曲であることの要素の一つとなる。

composer-instruments.com

 「ラック」も音楽用語で、音楽機材をしまう棚のようなものがラックであるが、ラックの大きさの単位は「U」である。柊マグネタイトさんの使っているラックは4Uサイズなのだろうか。

 「既に会う音に不意に解は求まんない」というのは、まさしく音について歌っている。よくボカロではレトリックや、あるいはただ単に音楽だからと言って音に関するフレーズを歌詞に差し込むことがあるが、この場合に限っては音について歌っている。つまりマキシマイザーである程度自動的にマスタリングされた結果だけでは満足できず、柊マグネタイトさんが自分の作品の出来栄えに満足できるようにあれこれ手を加えているのであろう。

サビについて

 『マーシャル・マキシマイザー』のサビは、柊マグネタイトさんがマキシマイザーを

使っている様子を描写している。

 つまり、音が壊れてもマキシマイザーの使用を強行し、音がタヒんでしまうが、そのまま楽曲の可能性を知りたくてオーディオインターフェイスのツマミを回し続けてしまい、今まで制作につぎ込んできた時間がもったいなくなるサンクコスト効果によってマキシマイザーの使用を続け、音楽的同位体である可不の音を最終的には取り戻したくて、次々に気になる部分や改善のたびに改悪される部分が出てきて無限に制作に打ち込んで、その結果ある音は良くても別の音は悪くなっていて乖離してしまっている?

 こんなの夜な夜なマキシマイザーを使用して悪戦苦闘しているDTMerの姿しか浮かばないじゃないですか!(上の考察に書いてあるけど)

 以上が、この楽曲のもう一つの側面である「作曲におけるマキシマイザーの使用とそれを含む柊マグネタイトさん自身の作曲体験」についての考察である。勿論この側面と臨界実験を行う研究者は、イメージのレベルで混ざり合っており、率直に受け取ると柊マグネタイトさんは自身の楽曲制作について、モラトリアム的な罪悪感を、全く深刻でない意味で持っているようである。

サムネについて

 サムネの女の子はオリキャラであるが、この女の子はヘッドフォンを付けて、白衣を着ている。このことは、まさに『マーシャル・マキシマイザー』が音楽と実験について歌っていることの証左である。

 この楽曲の最初の「ポロロローン」は、『炉心融解』のそれのオマージュである。テーマからして『炉心融解』は『マーシャル・マキシマイザー』と似通っている(核、チャレコフキ光)。ところで、「ポロロローン」の後カラーコードが映るが、カラーコードは今までの放送を終えて新しく放送を始めるために深夜に映るものであるので、ここでの意味は、「先輩の楽曲に『炉心融解』という曲がありましたが、それを踏まえて僕はこのような楽曲を作ります」という宣言であると考えられる。また、カラーコードは深夜の2時から3時に流れることが多いが、これは丑になって三時股げ!という事である。

 タイトルについてであるが、マキシマイザーは前述の通り、DTMのマキシマイザーであり、加えて研究者という意味のマキシマイザーである。マーシャルに関しては、恐らくマーシャル諸島の水爆実験からとっていて、核に関するイメージを多重に含ませている。音楽についての意味もしかしたらあるかもしれないので、僕は分からなかった。何か知っている人がいたら教えて欲しい。

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姉妹曲の、『カノン』について

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 この曲は、2022年2月19日に投稿された、『マーシャル・マキシマイザー』の姉妹曲と呼べる曲である。サムネを見て分かる通り『マーシャル・マキシマイザー』の対になる曲である。混沌とした歌詞の中で、急に「『誰も犠牲になんかならない』そんな理想に縋ってしまった』と意味が分かる歌詞が飛び込んでくる気持ちよさと、最後のアウトロを聞くためだけにこの曲を聞いているかのような贅沢感が好きである。

 さて、考察に入るが、カ(可)ノン(否定の意)より、カノンとは、可不である(サムネが可不だし)。また、カノンとはカノン進行の事である。ただ、この曲『カノン』のコード進行は、友達によるとカノン進行ではないらしく(😭😭😭)、しかし、間違いなくコード進行について歌ってはいる(歌ってはいるんだよ?!?!?!歌っては!!!)。『痕2回隔った十三度』というのは、カノン進行のコードの一部をずらして、新しいコード進行を作ろうとしている様子である。恐らく、十一度隔った時点ではしっくり来なくて、後もう2回隔たせたのだろう。『壊れたバランスの三角形』とは、カノン進行のコードを、だんだん崩していっている様子を表している(カノン進行のコードは、3音からなる)。最後のアウトロの部分は、カノン進行を壊して新しく作ったコード進行の披露であると考えている(さんざん試行錯誤して「また繰り返して」出来たものであるから「もういいよ」なのである。)。

 つまり、この楽曲に関しても、柊マグネタイトさん自身の楽曲制作について書いており、『マーシャル・マキシマイザー』ではマスタリング時のマキシマイザーの使用について歌っているのに対して、『カノン』では打ち込みについて歌っているのである。

 また、音楽用語としては、カノンは前述の「ロンド」と同様に、楽曲形式に関する単語であり、ここらへんも何か楽曲にかかわってくるかもしれない。音楽よわよわなので分からない。

 また、『マーシャル・マキシマイザー』を含め、柊マグネタイトさんの楽曲は1曲目の『或世界消滅』で予告されているという考察がある。確かに、「トカマク型に取り自己複製を繰り返せと」等という歌詞があるように(核実験、99人の恐らくクローンである被験者)、『マーシャル・マキシマイザー』とのリンクが見られるが、あくまでも『マーシャル・マキシマイザー』単体で考えると、以上の通りである。

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フォニイ

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この曲は、エレクトラの勝者についての曲である。

「誰しもが嘘に絡まっている。」

 この曲は「造花」・「フォニイ」・「そら」・「虚像」等、嘘に関するワードが多いが(勿論「」も  )、男女のどちらとも嘘をついているというのが面白い。この曲は男女関係に関する歌であるが、「嘘」だからといって浮気に関する歌などとしてはいけない。間奏部のMVを見て欲しいのだが、木製人形の男性に向かって主人公の女性が狐のお面をかぶって(猫のお面だという意見もあるが、猫をかぶっているので意味は同じである)媚を売っているのである。

 では、なんの嘘をついているのかというと、そこがエレクトラの勝者にかかわってくる。

 曲中には「謎々」や「何故何故」というワードや、「私ってなんだっけ」というフレーズを見て分かるように「嘘」だけでなく「謎」もこの曲の重要なテーマの一つであるが、その中で最も主人公が切迫して知りたい疑問は、「如何して愛なんてものに群がりそれを欲して生きるの」かであろう。その答えは母親の存在にある。

 エレクトラの勝者とは、ユングエレクトラ・コンプレックスにかかわる、つまり父母娘の三角形(これはエディプス葛藤的、勿論母父息子の場合はエディプス・コンプレックス)においての勝者である。これは、勿論女性のエディプス・コンプレックスとしてとらえてもいいが(つまり男女の区別をつける必要はさらさらなく、だが寧ろエディプス・コンプレックスが男性的であるという問題もある)、女性に限定されているこの用語が便利すぎるので、ここではこのまま使っていく。

 エレクトラの勝者の一般的な力動論としては、まず前提として幼少期に男女ともに異性の親に恋愛感情を抱くというものがある。ここで考えてみたいものは、思春期的ではないのである。恋愛的欲求ではなくリビドーであり、その上で恋愛的であるが、文字通りエディプス期である。一般的にはリビドーは原始的であるが、つまり、なにかに惹かれることの全般なのだが(精神分析的、いや力動論やんけ)、何が言いたいかといえば、そのさらに奥に生存欲求があるのである。

 エレクトラの勝者の場合は、つまり母に勝つのだが、その時起こるのは、母に自分が攻撃されるのではないかという、強烈な恐怖である。もっと言うと、小さいころや幼少期は生存にかかわるものつまり、寝食にかかわるものは母親がその管轄であることが多い。少なくとも授乳は母親が行うしかなく、その延長であると考えてもらって構わない(父親も哺乳瓶とかあげられるじゃん!とかそういうことは聞いていない)。

 そこで、何がおこるのかというと、エレクトラの勝者の欲求は満たされない。色々切り捨てていうと、人間が幼少期に本当に欲しがるのは、母親の母親的供給である。そこの基底がなくなると、所謂ヒステリータイプの力動論的なものに陥る。

 フォニイで何が起こるのかというと、父親の愛を求め男性に愛を求めるのだが、実は本当に欲しいのは、母の愛なのである。すべての男性は父親の代わりだが、父親すら母親の代わりでしかない。だから「すべてが嘘で出来ている」。エレクトラの勝者は、自分は男性に愛されるという基本的感覚があるのだが、そこで、自分も母の愛を求め、男性に嘘をつく。勿論これらはすべて無意識域に抑えられるが(だから「謎」なのでる。とらえられない。)、深層心理として、強烈に存在しているのである。

 フォニイのMVを見ている時、お面をはずしたのが大変驚いたのだが(作画コスト高いし)、その顔を見ていると、長いスパンでの欲求不満と虚脱感を見て取れる。ようするに永遠のフラストレーションがあるのだが、言葉を弄してなんとかこの寂しさを埋めたい、どうにかしてこの心の穴を埋めて永遠の安定を得たいとするが、また息継ぎ的に欲求を満たすだけの無駄な時間が訪れるこの事実の、絶望と徒労と茶番は、僕たち人間によくあるという意味で、圧巻である。

 正直、フォニイの考察ははっちゃけすぎたが、テーマがテーマなだけに仕方ない。結論としては、「如何して愛なんてものに群がりそれを欲して生きるの」かについての答えは、母親の愛を男性で埋めようとしているからである(男性的なもので埋めるので、女性的なものを求めても、永遠に埋まらない)。

 

ネクロフィリカル

 こんな考察で大丈夫なのか心配で夜も眠れないのだが(センシティブというか正直キモ過ぎる)、けど確実にそこで描写されてるんですからね?仕方ないんですよ?むしろそういうのを作品にするんですよ?僕たちは。確実にあるけど普段は気を払わなくて、でも確実に存在する、根深い問題を。僕が変態な訳ではないです(逆に、ある意味僕を含め全人類が絶対的に変態です)。

 それはそうとして、最後にネクロフィリカルに陥るのが面白い。これはキャットラビングもそうなのだが、これはボカロ曲というフォーマットが短いからだと考えている(ボカロ曲に限らず大抵の曲は5分前後。当たり前であるあが、楽曲は何かのテーマを表現するためだけに存在するものではないです。妥協という意味ではなくて)。

 つまり、自分が抱いている愛の形に疑問を抱きながら、最後はそのスタンスを肯定してそこに留まり続けようとするのであるが、曲の最後に曲の全体をまとめようとすると、簡潔になり、表面的にはネクロフィリックになるのである(この記事もそうである)。

 最後に、これまでと同じように、歌詞の一部を抜粋して、それがテーマに合致するという事を示すという事をやる。

・「色の目」

言の葉が言葉、事の果が事実だったので、色の目は色目である。

・「夜の電車が通り去っていく」

所謂、「終電逃しちゃった!」である。

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最後に

 明日はすしさんの記事です!今年のドベカレを主催してくださりありがとうございます!楽しかったです。